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2009年01月16日

婚姻史シリーズ(11) 婚姻様式は父系制(嫁取婚)へ

平安中期に登場した婿取婚は、鎌倉時代に入ると嫁取婚に移行していきます。

これは、婚姻制度がそれまでの母系制から父系制へと大きく転換していくことを意味していますが、どのような時代背景があったのでしょうか?

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●武家社会においては「家」が社会の基礎になっていった

以下は、こちらのサイトからの引用です。

中世になると,「家」が社会の基礎になり,支配も税負担も「家」を中心にして行われるようになりました。婚姻のかたちも,古代には夫婦の別居を原則として,もっぱら男性が女性のもとに通うという妻問いのかたちをとっていましたが,このころから,女性が男性の「家」に嫁いで同居するという嫁取りのかたちに変わっていきました。
なかでも武家の社会では,「家」と「家」の結びつきを通じて結合が強められ,武士団が形成されていきました。そして,その結合の要として婚姻が重視され,女性が大きな役割を果たしました。

武家が家を存続させていくため、また武家同士の結合によって闘争集団を形成するためには、男中心の父系制であることが必要だったのです。

●過渡期の嫁取婚

しかし、母系制から父系制という大きな転換の過渡期においては、下記のようにいきなり男中心の婚姻形態とはいかなかったようですね。

源頼朝と結婚した北条政子は,父親の反対をおさえ,自分の意志で頼朝を夫として選びました。そして,その婚姻によって父と夫の結びつきを強めていったのです。この時代の女性は結婚しても実家の姓を名のり,親の領地を相続する権利をもっていました。夫婦ともに生存しているあいだは両者の領地を合わせて,妻もその経営にかかわっていました。しかし,その死後は妻の領地は夫にではなく子どもに伝えられ,夫の領地とは区別されていました。また,夫の死後に地頭になってその地位をひきついだ女性がいたことや,幕府から領地をあたえられた女性がいたことからも,この時代の女性は男性に近い地位にあったことがわかります。

夫婦別姓と言えばまるで現代のようですが、最初の形態は、女性が夫の家に居住するものの母系制の様式であった色彩が強かったようです。その後武家社会が広がり、室町時代から戦国時代へと移るにつれて、徐々に父系制の嫁取婚へと転換していきました。

●嫁取婚は農村にも広がったか?

農村では、それまでずっと母系制の婿入婚だったわけですが、嫁取婚へ転換した武家社会とは一線を画しており、状況は異なっていたようです。

以下は、こちらのサイト(http://www.enpitu.ne.jp/usr1/bin/month?id=14673&pg=200104)からの引用です。

一般には室町期に成立した夫所婚制度は本邦に定着し、現在に至っているかのように考えられていますが、それは少しばかり間違っている。武家と公家、支配階級と非支配階級、マチとムラでは大きく違っている。そうした階層や地域の異なる共同体で同じ制度が罷り通る訳もないし、また同じにしなければならない理由もない。そもそも婿取り—母系社会は農耕生活の定着と同時に完成したものですから、こと農村部のそれに関して云えば、武家社会で起きたような劇的な転換はなかったのです。

–婿取りの習慣が残留していたと云うのですか?

 もちろんです。農家の娘は生産性の高い労働力ですからね。手放したくない。一方若者は機動力になるから欲しい訳です。そこで武家の婚姻作法を地域毎の事情に併せてアレンジした折衷案が表向き採用される。ムラ的嫁入り婚は、家父長制の象徴のごとき武家的嫁入り婚とは一線を画すものです。
たとえば東北から新潟、茨城、千葉などの地域では長く姉家督という方式が採用されていました。これは長女が家督を継ぐ。婚姻の形態としては明瞭な婿入り婚です。長子の一子相続とはまるで違う。ただ相続の形態としては長女の婿が相続人となる訳ですから、養子による長子相続ともいえますが、その実、長女は婚姻前からカトクと呼ばれる。長女は明確に戸主であるという自覚をもっている。これは父系社会のなかで生き残った母系の仕組みです。

なるほど~。農家にとっては母系制が理にかなっており、父系制である必然性は全くなかったわけですね。江戸から明治に至るまで、農家では母系制婿取婚のままであった可能性が考えられます。

●明治の「家制度」は父系制への転換を決定付けたか?

明治における近代化と共に、「家制度」なる法律が定められました。農家においても父系制婚姻様式へ転換していったのでしょうか?

 明治三十一年、日本は近代化の為と称して、欧州に倣い一夫一婦制を導入しました。しかし一方では武家社会の作法である家(家父長による階層的一族支配)という制度を温存する結果ともなってしまった。こうして支配的婚姻は本当に制度化されてしまう。四民は平等であり、例外は許されなくなってしまった。姉家督の伝統のあった地域でも、姉夫婦は弟(長男)の成長にしたがって家督を譲ると云う中継相続などの形を取って対応しました。それはあくまで法律上のもの。少なくとも大戦が終わるまで女系の因習は文化としては生きていた。我々が古の因習と考えていることの多くの常識はたかだた明治時代に政治的力学が働いて捏造された常識であることが多いのです。戸主がいて戸籍があって、妻は貞淑で家をまもって、それは武家の作法だ。これが一般的になったのは百年程前のことです。理由は単純です。国民を皆武士(兵士)にする為だ。徴兵するのに都合よい戸籍制度、戦闘意欲を削がぬ貞淑な妻。これらの常識は男は外で戦って無自覚に死んでくれ、という制度なのです。それを何世紀も前からそうだったように考えるのは錯角です。

法律で父系制婚姻制度が定められても尚、農家では母系制の色合いが残っていたのですね。しかし、日本国民全体が私権闘争の極みである戦争に巻き込まれてしまったことによって、ついに父系制婚姻への転換が完了したということでしょう。

以上のことからわかってきたのは、特に日本における婚姻様式は、母系制が基本なのであって父系制の歴史とはたかだか100年余りでしかないということです。

その後100年が過ぎた現在、私権そのものが崩壊したことによって、もはや父系制の婚姻様式に何の意味も無くなりました。その結果現在の家庭はガタガタになってしまったわけですが、父系制一対婚という婚姻様式が人々に無理やり押し付けた制度だったからこそ、簡単に崩壊してしまうのは当然だったと言えるのではないでしょうか。

投稿者 hiroaki : 2009年01月16日 List   

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