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2019年12月11日

学校教育がダメな理由と、学校には価値がある」という主張が無意味なわけ

「学校は学びの場としてあまりにも生産性が低い」

にもかかわらず、行かなければ人生が終わるかのような錯覚をして苦しんでいる子供とその親のなんと多いことか!

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https://diamond.jp/articles/-/117911

より社会派ブロガーのちきりんさんの文章を紹介します。

 

私はツイッターやブログで、学校教育についてよく批判をしているのですが、これも「学校は学びの場としてあまりに生産性が低い」と考えているからです。

興味深いのは、この意見に反論してくる人の大半が、「とはいえ今でも学校教育には価値がある」とか、「私はこういうことを学校で学んで、それが社会に出てから役立った。だから学校には価値がある」と言ってくることです。

この反論と、私の意見の違いがおわかりになるでしょうか?

実は反論はすべて「学校教育の価値はゼロより上である」という意見なのです。私はそれに反対するつもりはありません。学校教育の価値は、間違いなくゼロより上だと思います。でも私の主張の元になっているのは、その価値を得るために投入される希少資源と得られた価値の比率、つまり生産性なのです。

正確に言えば私の主張は「学校での学びは、学びの生産性が他の選択肢に比べてとても低い。だから無理して行く必要はない」というものです。価値がゼロより上だと言われても、それだけで無条件に自分の時間やお金を投入したいとは思えません。他にもっと生産性の高い学びの方法はないのか、そう考えてしまうからです。

時間もお金も有限かつ貴重なので、十分に報われると思えることに使いたい=お金や時間の生産性を最大限に高めたい。そう考えたとき、学びの場として今の学校の生産性はあまりにも低く見えます。

最大の理由は、個々人の理解レベルにまったく合わないペースで教えられているからでしょう。最低でも30人の生徒がいる教室では、一番よくわかっている子も一番わかっていない子も、自分の時間を有効活用できていません。

おそらく時間が有効活用できているのは、真ん中の10人ほどではないでしょうか。しかもその10人も、英語の授業時間は有効活用できているけれど、物理の授業ではまったく無駄に人生の時間を使っていたりするのです。

学校しか学ぶ場がなかった時代には、それでもみんな学校に行くしかありませんでした。Uberがない時代にはタクシーを使わざるをえないのと同じです。タクシーの価値は確実にゼロより上であり、とてもありがたいサービスです。でもUberが出てきて生産性の比較になったら、まったく太刀打ちできません。

これからは学校も、新たに現れるさまざまな学びの場と「学びの生産性」という観点から比較され始めます。そしてその生産性が低ければ、今と同じ形で残り続けることはできません。

学校というのはお金もかかりますが、なにより時間がかかることが大きな問題です。個人的な感覚では、大学が今4年間かけて教えていることは、生産性を上げれば1年くらいで教えられます。もしくは4年もかけるなら、今の4倍くらい価値あることが教えられるはずです。

そもそも何十年も前の、紙と鉛筆しかなかった時代に4年かけて教えていたことを、今でも4年かけて教えているなんて、あまりに進歩がなさすぎると思いませんか?もし4年分を1年で教えてもらえたら、時間だけでなく費用も1年分ですむのです。

現在の状態では、学校の生産性は私の期待値と比べて少なくとも4倍は低い。だから私はその存在意義に疑問をぶつけているのです。

このように、ある人が「生産性という観点から意味があるかどうか」を語っているのに対し、それに反論する人は「価値がゼロより上かどうか」だけに注目している、ということはよくあります。

たとえば公共工事をどう考えるか。私も含め公共工事に批判的な人の多くは、今の公共工事の生産性があまりに低いと感じているため、その分野に貴重な資源を投入しすぎるのは止めようと言っています。

日本が焼け野原になった戦後に道路や鉄道を整備し、ダムを造って水と電気を確保し、学校や病院を誰でも利用できるようあちこちに作った――こういう時代には、公共事業の生産性は非常に高かったのです。

しかし、低成長時代に入ってからも作られ続けたガラガラの地方美術館、ヒマな人しか訪れない温泉施設、交通量の極めて少ない立派すぎる高速道路などの生産性は、あまりに低すぎます。それらが生み出している成果が、投入資源に比べて小さすぎるのです。貴重な資源がちゃんと有効に活用されていたなら、公共工事に反対する理由はありません。官主導や公共工事が嫌いな人の多くは、その生産性の低さに耐えられないのです。

でもそういう意見に反対の人は「都会と地方の差をなくすためには、高速道路や新幹線が不可欠だ」とか「地方活性化のためには補助金が必要だ」と言うのです。そこには生産性の概念がありません。単に「新幹線や地方美術館の価値はゼロより上である」と言っているだけです。

そうではなく「高速道路や新幹線の建設が、都市と地方の格差を縮小するための、もっとも生産性の高い方法なのか?他にもっとよい方法があるのではないか?」と考えることが必要なのです。地方活性化のためのもっとも生産性の高い支援方法とは、本当に地方に補助金を配ることなのでしょうか?

このように価値の絶対量で善し悪しを語る人と、生産性の高低でその是非を判断する人が混在しているため、両者の意見はまったく噛み合わないのです。

 

(後略)

投稿者 hoiku : 2019年12月11日 List   

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コメント

公共事業には反対しません。但し、貴殿の仰る通り、道路族などの利権の為に無駄で、且つ地方を疲弊させている道路事業ほど悪業はありません。今まで町中を通っていた国道が町道にまで格下げされ、生活道路や物流道路としての価値は無くなり、町には整備する予算もなく荒れ放題。他地域から来た方が落としてくれていた収入源もなくなり、畑や田んぼを分断した高速やバイパスを使って、多くの人が素通り。
地域の商店など、軒並み閉店に追い込まれ、隣の県まで仕事探しに行く有様。
雪国においては、新しい高速やバイパスの除雪はしても、今までの生活道路の除雪に十分に手が廻らず、疲弊する一方。
これは、ひとつの例ですが、こうした国や地方を俯瞰的に見て、何処を効率的、効果的に公共事業をやるかなんて調整機能がないのが問題です。

投稿者 yuji iguchi : 2020年1月15日 18:49

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