| メイン |

2023年04月03日

時代の変遷と学習指導要領

学校教育は、社会動向、生産様式の変化と連動しているということを、これまでの記事で紹介してきました。実は、学校教育の中身を決める学習指導要領は、戦後から現在までの間で計8回の改訂が行われています。今回は、その動き(社会(産業)の動き→学習指導要領→学習の中身)を年代ごとに追っていきたいと思います。

■1950年代:第1回改訂

戦後の日本は、欧米に追い付け追い越せと工業化を推し進めていきました。

1950年の朝鮮戦争特需によって経済が大きく上向きになっていきました。このころから農家人口が大きく減少しています。工業化が進んでいったことで、地方から都市へ生産人口が移っていきました。さらに1955年以降、高度経済成長期に入ります。人材の「質」よりも「量」が経済(産業)を支えた時代でした。

 

当初の学習指導要領は、「アメリカ式の教育」(社会と生活を連動させた経験主義、現場の創意工夫に任せる教育)を参考にして作られましたが、改訂されます。改定内容は、「総授業時数を改正」「教科を4つに分類」「毛筆習字は,国語の一部として4年生から実施」「自由研究は教科以外の活動」「道徳教育の役割を各教科にて明確化」しました。基本方針はそのままに、科目ごとに過程や時間配当を明文化、教育課程の年次・週計画のたて方、また指導方法が細かく設定されるなどどちらかというと教員側の改定から教育の充実が図られました。

 

■1960年代:第2回改訂

1960年代は、簡単に言うと1950年の勢いをそのままにもっと学力をつけて、もっと生産力を高めるようとした時代。人材の量を増やすことに比重が置かれつつも、一定の質の上昇を図りはじめました。

 

そのため、学習指導要領は、基礎学力の充実に加え、科学技術教育の向上を目的に、日本式知識伝達型教育に移行します。当時の改定により、全体の授業時数を大幅に増やしました。公立学校では補習が行われ、学習塾も多く作られた時期でもあります。詰め込み教育のはじまりといえます。学校教育では偏差値に基づく評価がなされ、学校間、生徒間序列を生み出し、学歴獲得競争に突入します。

 

■1970年代:第3回改訂

1970年代の日本は、高度経済成長を遂げ、世界第2位の経済大国の地位を得ました。1964年に東京オリンピック、1970年に大阪万博を開催。国民の生活水準は飛躍的に上昇しました。世界トップレベルの経済大国として、産業界はさらに科学技術向上や経済発展を推し進めようとしていました。

 

この時の学習指導要領は、時代の要請に応えるために、「量」も「質」も求められました。このころの学習量・内容は、進度が早すぎて子どもたちがついていけず、「新幹線授業」と言われていました。その結果「落ちこぼれ」を生み出し社会的問題へとなっています。

 

一方で1973年のオイルショックによって、先行き不安を掻き立てられた親たちは「学歴だけは確保しておこう」と子ども達を学歴獲得競争へと追い込んでいきました。結果、受験競争がさらに激化していくことになります。

 

■1980年代:第4回改訂

1980年代の経済は、バブル化によって異様な盛り上がりをみせました。これまで一貫して経済拡大・生産力拡大を推し進めてきた産業界ですが、オイルショックやバブル経済などの社会現象を目の当たりにし、単調な拡大路線を切り替えます

学習指導要領も、「創造性」「多様な個性・能力」、「教養」が重視されるようになり、これまでの「量」重視の学びの在り方が変わる時代です。同時にゆとりが導入され始めます。

 

受験競争による、落ちこぼれの続出の総括から、国語、算数、理科、社会がそれぞれ週1時間ずつ削減されました。ただし、時間だけは縮減されたものの、学ぶ中身は減っておらず、改定による効果は低い状態でした。また、週1時間「ゆとり」が新設されましたが、その有効な使い方が示されず、授業の補習用の時間として使用されているケースがほとんどでした。

 

■1990年代:第5回改訂

1990年にバブルが崩壊し、金融機関の破綻も相次ぎ、大手金融機関の山一証券も倒産したのも大きな出来事でした。大量解雇により終身雇用などの日本型経営は崩壊。戦後から続く私権収束が一気に衰弱した時代です。産業界が求める人材像も変わり、学力よりも「課題設定・解決能力」、「論理的・批判的思考力」が重視されようになりました。

 

学習指導要領も「新しい学力観」が提唱されました。子どもの学力とは、知識の量ではなく、「自ら学び、自ら考える」力であり、「社会の変化に主体的に対応できる」子どもを育てようという方針を打ち出しました。しかし、指導要領の具体的な中身を見ていくと、相対評価から絶対評価に変わったこと、週5日制を取り入れたことが主要な改定であり、新しい学力観を象徴するほどの大きな転換は見られませんでした。

 

■まとめ

ここまで学習指導要領の改訂を見ていくと、1980年までは、生産力拡大路線を進めた国(経済・産業)の動きと連動して、「量」を増やしていく改定が続きました。事実として、人材量の投入によって世界第2位の経済大国まで上り詰めました。しかし、1980年代以降は、それまで見てこなかった問題が顕在化され、教育界では「ゆとり」路線を取ったものの、中身がなく、スカスカ状態。産業界も学力ではなく「創造性」や「課題設定・解決能力」などを重視したものの、その中身は教育界同様スカスカ状態となっている。誰も答えを見出せなくなり、明らかな低迷感が充満していきました

 

 

1950年代から1990年代の社会(産業)の動き→学習指導要領→学習の中身を追っていきました。次は2000年代に入っていきます!

投稿者 haga-h : 2023年04月03日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2023/04/9906.html/trackback

コメントしてください