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2020年09月11日

成績が悪くて何が悪い。成績と人間力は無縁、むしろ反比例するのが現実。

学校生活では成績がすべて。
いい成績を取ることが目的で、成績によってふるい分けられ序列化される。いわゆる学歴を手に入れるために皆成績に収束してきました。

しかし時代は変わり、いい成績、高学歴は何の役にも立たないことが明らかになってきました。

今回はそんな成績絶対の弊害について考えてみます。

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以下(http://www.fujitsubame.jp/educations.html)より引用します。
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学校では成績が全てである。

しかも、学校の成績は、試験の成績である。試験の成績は、試験問題に左右される。試験問題は、その前提によって決まる。つまり、成績を確定するのは、試験問題であり、試験問題を設定するときの前提にある。成績に影響を与えるのは、試験の結果だけではない。通信簿や内申書も成績は、反映される。通信簿、内申書の成績になると、担任の教師の主観が大きく入り込む。だから、成績を問題にする場合、本来、試験問題の前提と教師の考え方が、一番、重要なのだが、その事は、いっこうに、問題にされない。その上で、成績が全てなのである。

どの様な前提で試験問題がつくられ、どの様な考えの先生がそれを教えたのかは、全然問題にされないで、試験の点数だけが問題にされる。つまり、根本を無視して結果だけを問題にしている。それが今の学校の実体である。仮に前提が間違っていたら全てが成り立たなくなる。ところが、試験問題そのものの是非は問題にされたことがない。それで成績である。

最近、冥王星が惑星からはずされた。それで教育界は大騒ぎである。教科書に記載されている事実と違うというのである。これまで教えていたことと矛盾するというのである。これまでの試験の結果を訂正しなければならないと言うのである。彼等にとって教科書は事実であり、試験の結果は不変なのである。極端な話、試験の成績のためなら、科学的真理など二の次なのである。

歴史的事実は、教科書に書かれていることであり、その為にならば、歴史的を改竄してもかまわないと考えているのである。それが成績の本性である。試験の問題の前提は、教科書に書かれていることであり、真実や事実である必要はないのである。要は、結果さえ出ればいいのである。結果は、成績になる。

成績が悪くて何が悪い。成績が全てではない。成績が悪くても、人間的に素晴らしい者は、沢山居るし。成績が良くても、人間が、悪い奴は、いくらでもいる。

学を志すというのは、学校に行くことを意味するのではない。人生いかに生きるべきか、自分が何を学びたいかがハッキリしない者が、学に志す事はできない。学を志すと言う事は、学問を究めたいという願望があってはじめて成立する。学校の成績など関係ない。学問が好きでなければ、学問なんて志せるわけがない。学問を究めるというのは、それほど容易い道ではないのである。

つまり、学問には前提がある。何を学び、何を教えるかが大切なのである。学問は、結果ではない。その志すところが大切なのである。

勉強は一人でもできる。学問とは、基本的に一人でする者だ。だから、学校に行く、行かないは、学問を志すことと基本的に無縁である。学校に行けなければ、学問ができないと思っているのならば、その時点で、学問を志す資格はない。学問に、試験の成績なんて関係ない。世間に認められることを、どこかの大学の教授になることを目的にしているならば、成績を気にすればいい。しかし、それは、学を志す事とは違う。それは、学問を生業にすることである。学問を生業にする以上、学問は、利権である。利権である以上、それを測る物差しが必要になる。それが成績である。しかし、学問の本質は、利権ではない。志である。利権ばかりで、志がなくなった時、学問の府、大学は、堕落する。故に、学問と成績とは、無縁である。

成績が悪くて、何が悪い。成績が全てではない。成績が全てなのは、学校という閉ざされた社会の内部においてだけだ。

現実の社会では、成績が全てではない。過程が、重要なのである。確かに、最終的には、結果である。それも実績である。しかし、現実の社会における結果は、過程との関わりによって発生する。過程を無視しては、いい結果は得られない。また、現実の社会の結果は、学校の世界での、成績とは違う。学校の世界での成績とは、試験の結果を意味する。しかし、試験問題と現実とは、違う。

(中略)

頭がいい子、性格、人柄のいい子が成績がいいとはかぎらない。

頭がいいことと、成績のいいこととは違う。その典型的な例が、絵画や音楽である。今の学校教育は、個人の才能を伸ばすことに主眼をおいていない。能力の平均化、すなわち、平凡化に主眼がおかれている。つまり、平凡な人間が評価されるのである。

今の学校教育では、頭のいい子ほど馬鹿になる。なぜならば、頭のいい子は、先生のいう事が、理解できる上に、先生のいう事を信じてしまうからである。先生が、間違ったことを教えれば、間違ったまま覚えてしまう。学校において、個々の教育者は、自分が教えている事が正しいかどうか検証する術を持たない。大体、教えるという行為は、主体的な者である。ところが、学校では、教師の主体的行為を認めていない。そうなると、教育者は、自分の教えている事に責任が持てない。責任が持てない以上、それが、間違っているかどうかを確かめようがないのである。

教える人間が、確かめようのない、自信の持てないことを教えている以上、正しい事を教えようがないのである。このことを前提に考えなければならない。成績の根拠なんてものすごく脆弱なのである。その脆弱な根拠に基づいたものを絶対的な真理として刷り込まれれば、素直で、頭のいい子ほど、馬鹿になる。素直に従っても、反発したところで、成績にこだわっている限り、馬鹿になる。しかし、成績にこだわらなければ、落第するか、おちこぼれる。だとしたら、落第やおちこぼれる事を恐れないで、学問に主体的に関わる以外、逃げ道がなくなる。

それに、学校では、成績の悪い子か、平均的な子に歩調を合わせなければならない。それでは、頭のいい子は勉強が嫌いになる。

しかも、日常の授業は、平均的な子か遅い子にあわせる。なのに、受験は、逆に、成長の早い子から選別する。だから、授業がどっちつかずになる。その矛盾を解消する為には、いずれかを差別するしかない。子供の個性や成長の差を無視しているのである。それだけでなくても、子供達に間には、誕生日によって最長一年化の差がある。この一年の差は、低学年では、かなり大きなハンディになる。

成績と人格とは、無縁である。成績が良くても、性格の悪い奴は、いくらでもいる。成績が全てではない。

試験勉強というのは、基本的に選別のための競争である。ある意味で仁義なき戦いである。試験勉強、成績の前には、友達も信頼も何もない。出し抜きあいであり、騙しあいである。人が良い人間は、脱落していくのである。指導力や人間性も関係ない。なまじ、指導力を発揮するとおいて行かれてしまう。とにかく、先に行った者勝ちなのである。そうなれば、むしろ人間性や人格は、犠牲にした方が有利である。それこそ、自分一人良ければ、他人なんてどうでも良いのである。だから、成績と人間性は、無縁と言うより、反比例している。いい成績の人間が必ずしも、仲間から信望や尊敬を得られないのは、当然の帰結である。

多くの優等生が、学校や教師からの評価を得ながら、仲間内から孤立しているのが理解できないのは、成績と人格が無縁であることに気がついていないからである。いい成績を取りながら、人格を磨くのは、現行の教育制度下では至難の業である。

先生の用意した答えを探そうとする。その習性は、学校を卒業してもなかなか抜けないで、自分の考えではなく、上司や相手の考えをたえずさぐろうとする。そのために、自分の意見がもてない。
答えは、常に自分の外にあると錯覚している。しかし、本当の答えは、自分の内側にある。特に、自分が生きていく上での正解は、自分で出さなければならない。
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学校の成績と、仕事上の業績はまったく違います。成績は個人の問題、業績は多くの人とのかかわり信頼関係、その人の人間力で達成されます。架空の世界と現実世界といっていいくらいかけ離れたものです。だから学校の成績が現実の仕事に全く役立たないことも自明のこと。

成績には固執せず、自人間力を磨くこと。そのためにも学校はできるだけ早く終わらせ、現実の世界に出ていくことが大切です。義務教育が終ったら働こう、その方がよほど成長できるのだと思います。

投稿者 hoiku : 2020年09月11日 List   

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