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2008年06月10日

明治期庶民がどのようにして新しい家族制度を受け入れたのか

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明治維新を経て、富国強兵、殖産興業などの掛け声の下、近代西欧をモデルにした社会へと大きく舵が切られていきました。

これまで見てきたように、江戸期は武士、農民、町人という身分ごとにそれぞれ違った家族形態の中で暮らしが営まれていました。
庶民にとって暮らしの中で最も身近な位置にある家族制度が、明治期になりどのように変わり受け入れられていったかを調べてみました。

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江戸時代の家族は、以下のような姿でした。

●江戸時代中期頃になると、新田開発などが進み小農が自立するようになり、人口の大多数を占めていた農民の中では比較的小規模な直系家族が形成されるようになっていました。
●農民に次いで人口の多かった武士は、長男相続・親と長男夫婦の同居・都市居住のサラリーマンで妻は専業主婦という家族形態が主流でした。(近代以降の家族の原型になるものでした)
●一方、都市部に暮らしていた庶民(町人)たちは長屋の共同体的な世界に暮らしながら、基本は小家族あるいは単身所帯でした。

さて、明治維新を経て、西欧列強に伍してゆくために中央集権体制の国民国家の形成を目指して様々な制度が作られていきました。

家族制度に直接繋がるものとしては、明治4年制定の戸籍法があり、明治6年に地租改正と徴兵令が定められました。

戸籍法によって戸主が定められ、地租改正で土地の権利が定められると戸主名義の財産となっていきました。また、徴兵制が成人男子を対象にしていて、一時、戸主の免役があったことから、長男相続へと方向付ける原因のひとつになったようです。

その後、明治23年に教育勅語が発せられ、明治31年に家族制度を明文化した民法が制定されました。

教育勅語については、当時回付された西欧流の民法草案に対して、家族の中に権利規定などを持ち込むべきでないという考えを持った保守層などがその制定を強く働きかけたようです。
明治民法は、欧米列強と付き合い、治外法権を撤廃させるために欧米流の法制度を制定するという色彩が濃かったようです。そのため、国内では様々な議論があり、家族法関連の規定についてはある意味骨抜きにされた条文で制定されました。

このあたりの事情については、ざっと以下のようです。…引用・抜粋です。(リンク

●明治民法は、 元老院の審議によって多くの条文を削除されて実効力を削がれた旧民法の条文をもとに、 明治前期に整備されていた戸籍制度を基礎にして、 戸籍に体現される 「家」 を基幹の家族制度として家族法の規定を整備した。 この結果、 日本民法は、 相続という効果を除けば、 戸籍の登録基準を定める法として主に機能するものになってしまった。

●明治民法は、 本来的な家族法としては無力な法であったけれども、 家制度を定めて家族の正統的なあり方を宣言することにより国民の家族意識を形成する法としては、 圧倒的に強力なイデオロギー的効果をもった。  
 当初は現在の住民基本台帳と同じように、 ひとつの屋敷ごとの住民登録として作成された戸籍は、 実際の生活を反映したものであったから、 もともと家制度は生活実態や感情と重なるものではあった。 しかし逆に、 明治民法の家制度や戸籍制度によってそれが制度化され、 その制度の側が国民の意識を形成したことも大きかった。

●家制度は国家公認のイデオロギーとして推進された。 明治民法立法以前は、 わが国では戸籍上も夫婦別姓であったのだが、 その記憶は瞬く間に遠のいた。

明治民法そのものよりもあるいは戸籍制度や氏のほうが、 国民の家族意識形成に働いた力は大きかったかもしれない。
 住民登録とも連絡しており公開原則のもとで本人の意思にかかわらず他人から容易にアクセスできる戸籍という家族簿は、 国民各人が人生の重要な場面で記載内容が問題とされる逃れられない身分証明でもあって、 その記載はさまざまな差別をもたらしうるものであったから、 戸籍の記載内容への関心は絶大なものであり、 その存在が国民の意識に重大な影響力をもつのも当然のなりゆきであった。

●第2次大戦後の民法改正はイデオロギー的にはたしかに大きな転換ではあったけれども、 実際には、 家意識は、 戦後改正による家制度の解体後も根強く残った。 それには、 氏の果たした機能が大きかったと思われる。 個人の表象である氏名は本人にとって人格権的な意味をもつ非常に重要なものであるから、 本人の意思に合致した変更であればともかく、 意思に反しても婚姻に伴って氏を変更させることは、 「家」 の変更として人々の意識に圧倒的な影響力をもたらしたであろう。

以上から見えてくるのは、戸籍法、地租改正、徴兵令、教育勅語、民法といった様々な法律、制度が制定されたとはいえ、新しい家族制度への変化の上では戸籍登録と婚姻に伴う氏の変更(庶民に名字が許されたのは明治になってから)という実態的な規定に基づく「家」の具象化が基礎になっていたと言えるようです。

そして、教育勅語で「親への孝行」などが教え込まれ、戸主の財産権の規定から民法での家父長の規定へと繋がる序列観念の浸透が「家」制度を補強するようになっていったと思われます。

江戸期の庶民(農民、町人)たちのおおらかな婚姻規範と共同体的なつながりの中に組み込まれていた家族は、明治期の西欧列強に伍するための中央集権体制の国民国家の形成を目指した法制度の制定と近代的な産業社会への移行という社会の変化の中で、「家」制度に基づく家父長の下に統率された家族へと変化していきました。
しかし、農村に暮らす大多数の庶民は、「家」観念と家父長という存在を受け入れながらも、互いの家族を屋号で呼び合い、「家」のつながりを基盤にしながらも村落内で相互に支えあう共同体的な意識はいまだに色濃く残っていました。

byわっと

投稿者 wyama : 2008年06月10日 List   

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コメント

江戸時代は庶民に姓はなかった。屋号をもとにした家名があった。夫婦は同じ家名のなかで生活していた。壬申戸籍法ができて国民皆姓となり、夫婦別姓になった時期がある。それは、借財の返済ができない場合の保障としての娘の身売りが慣行としてあったからである。しかし、すぐに夫婦同氏に改正されている。明治民法以前は夫婦別氏であったと解釈するのは、おかしい。

投稿者 名無し : 2008年8月21日 07:49

コメントありがとうございます。

>それは、借財の返済ができない場合の保障としての娘の身売りが慣行としてあったからである。

この慣行がいつごろからあったのか、残念ながらよく知りませんが…

江戸期までの農村で屋号で呼ばれる状況と明治期以降の氏(名字)のもつ意味はかなり違うように思われます。

江戸期の農村では、村落に掛けられる年貢を村落内で分担することになっていたから、それぞれの田畑を受け持つ屋号が決められ、適任の跡継ぎがいなければ誰をそこに充てるか村落内で決めるといった状況だったはずです。また、若衆宿があり、離婚もわりと多いなど、おおらかな男女関係の社会だったようです。
明治初期までの農村は村落共同体と呼ばれる状況だったわけですが、明治政府は近代集権国家をつくるために村落共同体の解体を進め、個々の家族ごとに氏の下にまとめさせるという体制が指向されたと見ることができると思います。

投稿者 わっと : 2008年8月23日 15:19

自民党が憲法改正で復活を目論む「日本の伝統的な家族システム」としての「家制度」は、江戸時代以前における庶民の間では(農民、都市部の中産階級未満の層)では、あてはまらない家族システムだったのですね。
しかし自民党がしきりに求める「日本人本来の共同体の精神」とは、実は士族的な家父長制の家制度からではなく、根本的には農村型の村社会からきているのではないかと感じました。
だとすると、家父長制が薄れてきた現代において、なぜか自民党を「家制度」の復活を目指す憲法改正へと突き動かす原動力の正体は、旧士族階級の家族イデオロギーの残滓、あるいは明治憲法下で家父長制的な家(族)制度の恩恵を享受してきた支配層のナルシズムなのではないかと感じます。
しかしそれで真に得られるものは、国民の共同体の精神の復活などではく、むしろ逆に核家族化の進行であり、介護や教育インフラを共同体的な家族に丸投げしようとする自民党の目論見は達成出来ないと感じます。唯一得られるものとしては、明治以降支配的であり続けた層の復権ということになると思います。それはまさに戦前より酷い格差社会だと感じます。

投稿者 にゃんこ : 2018年12月15日 07:33

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