| メイン |

2014年08月07日

新たな保育の可能性2 富国強兵を継承した戦後保育所

保育所の歴史を調べていたら、第二次大戦真っ最中に保育所設置が本格的に行われていました。
戦後直後1947年(昭和22年)に児童福祉法が制定され、戦後保育所がスタートします。この戦後保育所は、戦後復興を行うために、国民各層の努力を結集する意図があったのでした。
今回は、明治、大正、昭和(戦前)、昭和(戦後)と保育(子育て)と保育所の歴史をたどります。

1.明治・大正期:年寄りが孫の保育を行う

明治・大正期の保育は、主に年寄りが担っていた。それを、宮本常一著『家郷の訓(おしえ)』(岩波文庫)からみてみます。

宮本常一氏は1907年(明治40年)に山口県大島郡家室西方村生まれました。明治期の保育(子育て)の状況を伝えてくれています。

若い妻にはやがて子が出来る。しかしこの母親は毎日家を外にして働かなければならない。朝早く出て行くと昼飯の支度にかえるまでは山にいる。昼飯がすめばまた山である。その間子供は老人のいる家であればばアさんが世話をする。それのいない家では子守をやとう。たいていは親類の娘子どもである。これには別に賃らしいものもやらなかった。私も親類の子などに負われたことがあるというが、私の家には祖父も祖母もいたので老人が一番多く面倒をみた。 このようにして六、七歳になるまでは通常祖父母のもとで育てられる。

祖父は剽軽な人で、働き者で、話好きで、唄好きであったから実によく印象に残っている。そして四つ位の折から祖父につれられては田や畑に行った。その往復に際して荷のない時は、いつもオイコにのせて背負ってもらった。ちょうど猿曳の猿のように。 これが実に嬉しかったものである。

山へ行くと祖父は仕事をする。私は一人で木や石を相手にあそぶ。山奥の方まで行ってあわてて畑の所まで来て祖父の働いているのを見てホッとする。気の向いた時は草ひきの手伝いをする。

「おまえが、たとえ一本でも草をひいてくれると、わしの仕事がそれだけ助かるのだから・・・・・・」

と言って仕事をさせるのである。そのかわりエビ(野葡萄)やら野苺などよく見つけて食べさせてくれる。野山にある野草で食べられるものと、食べられないものと薬用になるかならぬか、またその名や言い伝えはこうして祖父に教えられた。

元来、子育てとは高齢者役割であった

山仕事に行く時、背負っていくオイコ hoiku01 画像は、祝島ホームページさんの日記から借用しました。

年寄りが、幼児の面倒を見るだけでなく、さまざまな事を教えていたのです。

次に、明治・大正期の保育所の歴史を辿って見ます。明治期の保育所(託児所)は、子守をする女子が学校に通うために設置され、次いで、女工のために開設されたのでした。

日本で初めて保育園が開設されたのは、1871年(明治4年)のことで、アメリカ人宣教師によって、横浜に開設された【亜米利加婦人教授所】という混血児を救済する託児所です。日本人によって初めて開設されたのは、1890年(明治23年)のことで、新潟県の【静修女学院附設託児所】が最古の記録として残っています。

当時の託児所は、“子守をしながら学校に通う子どもたち”を対象に作られたものでした。その後、このような託児所は全国各地に次々と開設されていきました。 時代の流れに合わせて1900年(明治23年)には、紡績工場や製糸工場で働く女性たちのために【二葉幼稚園】が開設され、また、日露戦争で孤児となった軍人の子どものための託児所や、農業が忙しい時期にだけ開設される託児所なども開設されていました。

当時は、保育というよりは子守というような感覚ですね。 そして、1919年(大正8年)に救貧・治安対策の一環として大阪→京都→東京の順に、公立の保育所が次々と開設されました。

保育士の歴史から

2.戦後:保育事業の再興(国力の源泉、子供の養育)

敗戦直後の1947年(昭和22年)に児童福祉法が制定され、戦前の託児所が認証保育所という名称に変わり、戦後保育所がスタートします。

児童福祉法、保育所制度が戦後直後にスタートしましたが、それには前史がありました。

1938年(昭和13年)ころから、軍事力を増強し家族養育を補うために保育所の設置が促進されました。つまり富国強兵、国力増強の補完政策として保育所設置が行われたのです。 1944年(昭和19年)には、全国で2000を超える保育所があり、18万人弱の児童の保育がされていました。 hoiku04 表は、戦後草創期の保育所から

戦争により男子が少なくなり、戦災孤児があふれた戦後、国の復興を国民全体で担い、次の世代を育てるという意図に基づき、戦後直後の1947年(昭和22年)に児童福祉法が制定され、保育所が制度化かされました。

その後、高度成長を進める政策の補完的役割を保育所が担っていきます。高度成長期のモデルは、「長時間労働を行うモーレツサラリーマンと専業主婦」という新しい家庭単位を想定し、そのモデルから抜け落ちる職業婦人(看護婦等)や共働きを必要とする下層階級を支えるものとしての保育事業です。

戦後、1947年に児童福祉法が制定されて、認可保育所という制度が生まれました。

この認可保育所は、国の認可基準を満たして補助金が投入されたもので、現在は約2万3000カ所あります。この認可基準を満たさず、国からの補助金が投入されていない認可外保育所が現在約7000カ所あります。

戦後復興と高度経済成長を支えるため、国は「長時間労働のモーレツサラリーマンと専業主婦家庭」という新しい家族単位を、扶養控除税制等を代表的に、政策的に奨励してきました。第二次産業による経済成長を達成するために、最も効率的な労働力の再生産モデルだったためです。

そこにおいては、母親が働く家庭というのはマイノリティでした。ゆえに、今では日本語として違和感を感じる人も多い、「保育に欠ける」という言葉を使い、「保育に欠ける」子どもたちのために、福祉として保育所を作る、という政策を進めたのでした。

基本的には福祉政策であったため、その他の福祉政策と同様に、社会主義的ないわば「配給制度」を採用しました。つまり、行政がその地域の福祉を必要とする人々の数を把握し、それにあったサービス供給量を提供する、というモデルです。

サービス供給のやり方として、自治体が公務員を使って、自ら直営で運営する公立園。社会福祉法人という日本に特殊な法人格を持つ民間団体に委託する、私立認可園の2タイプです。

社会福祉法人は、戦後に作られた社会福祉事業法で定められた法人格で、政府の行いたい福祉事業を独占的に受けられ、税制面でのメリットを享受できる代わりに、剰余金の制限や各種規制をうける事業体です。政府としては、全て公務員を使って行うことは難しかったため、戦前から各地で独自に事業を行っていた慈善事業家や社会事業家を、自らの統制的な管理下におき、効率的に福祉サービスを広げていきたかったということです。

待機児童問題を考える前に、そもそも保育園の歴史を振り返ってみようか(駒崎弘樹氏)

福祉政策として、保育事業が展開されたため、設置主体は、地方自治体と社会福祉法人が担うこととなりました。しかし、1970年代に豊かさを実現し、福祉政策の有効性が問われ、一方、専業主婦モデルが変貌することで、福祉政策としての保育所のフレームが揺らいでいきます。

3.1990年代:保育所=福祉政策の破綻

同じく、駒崎弘樹氏のまとめから見てみましょう。

さて、こうした社会主義的な配給体制に基づく認可保育所供給政策は、80年代から綻びを露にします。85年に雇用機会均等法が施行され、女性が正社員としてフルタイム労働に参画していくのが後押しされ、働く女性の数が増加します。 それに伴い、働く母親の数は増加していきました。

国はようやく94年エンゼルプラン・99年新エンゼルプラン等の施策を打ち出しますが、政策の大きな方向転換をすることができません。同時並行的に、1990年代中盤には、共働き世帯数が専業主婦世帯数を追い抜きます。

hoiku03

90年~2000年代からは長引く不況と非正規労働の増加によって、夫の収入だけで家計を維持することが困難になり、母親の就労がパート・派遣労働等、多様な形態を取りながら更に進みます。

こうした「働く母親の数が増えた」「働き方が多様になった」ことに対し、戦後から高度経済成長を支えた認可保育所配給制度は十分機能できませんでした。 70年前の社会状況を基に作られた諸々の基準は、高度経済成長を経た日本の都市環境には合わず、機動的にニーズに合わせて建設していくことができなかったのです。

待機児童問題を考える前に、そもそも保育園の歴史を振り返ってみようか(駒崎弘樹氏)

戦後復興、高度経済成長を果たした結果、家族モデルが崩壊し、専業主婦ではなく働く女性が主流となったことで、戦後福祉政策としての保育所が、曲がり角に至りました。

次回は、1990年代以降の保育所をめぐる動きを見てみます。その歳、幼児・子育てにとって大きな存在である幼稚園も含めて考察します。

投稿者 hoiku : 2014年08月07日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2014/08/3411.html/trackback

コメントしてください