『生きる力を育てる教育』~日本語の力(総集編)日本語ってやっぱり素晴らしい!~ |
メイン
2012年08月02日
こんなにすごい!自然治癒力☆+゜~病気は自己を成長させるよいチャンス!快癒力①②
これまでの投稿↓
感謝の心がもたらす治癒の力
呼吸を整えて心と体を整える
カギとなるのは自律神経のバランス
食を減らすと病気が消える!?
人と人との繋がりが生む共認治癒力
心と身体を一体にする謝罪と感謝
ここまでお送りした様々な事例から、人間が本来持っている自然治癒力の可能性が見えてきたように思います。しかし、どうしても「病気」になってしまうと、体の調子が悪いことからマイナスイメージにとらわれてしまい、人間本来の自然治癒力の可能性を高めることができなくなることも多いのではないでしょうか。
そこで今回から数回に渡り、篠原佳年氏の著書「快癒力」から「病気」の捉え方を変える「心の在り様」を学んでいきたいと思います。
『病は気から』とは昔から言われていますが、その本当の意味とは何なのでしょうか?
それでは、続きを読む前に応援クリックよろしくお願いします!
るいネット:『快癒力』篠原佳年著(1) ~医者が病気になるのはなんで~からの引用です。リンク
────────────────────────────────────────────────────────────
職場内において健康不安を口にする人が多い。私も、健康に気使う方だが、気を使えば使うほどストレスが溜まる。そんな経験は多くの方に多いのではないかと思う。『病は気から』とは昔から言われているがその意味をきちんとわかっている人は少ないように思う。
そんな方の思いに応えてくれる図書『快癒力』篠原佳年著があります。その本を紹介しているサイトより引用します。
2012年の黙示録 『快癒力』リンク
以下引用します。
■医者が病気になりやすいのはなぜか
医者が病気になりやすく、平均寿命も短いことをご存じですか。医者は病気治しのプロであり、病気の原因も治療法も熟知しています。その専門家が病気にかかりやすいのは、おかしいと思われるかもしれませんが、現実に医師は自分の健康や長寿のためには最悪の環境にあるといっていいのです。たとえばガンの専門医は、毎日毎日ガン患者と対面しています。ガンへの恐怖のイメージが医師の心の奥底に深く入り込んでガンになってしまうことが多いのです。波動の理論でいうと、ガンの波動とシンクロ=同調してしまうのかもしれません。
ある年齢になって「そろそろ成人病に気をつけなければ‥‥」と思うのもよしあしです。健康のために運動をして、食事に気をつけるのはよいことですが、「成人病、成人病」と意識しすぎることは、かえって 心のなかに病気の種を植えつけるようなもの だからです。
私がこれまで多くの患者さんに接して思うことは、病気になりにくい人は 「病気を意識していない人」なのです。病気のことなんか、まるで眼中にない人は、めったなことでは病気になりません。
ストレスから胃潰瘍になることはよく知られていますが、胃潰瘍にかぎらずあらゆる病気の原因は、自分自身がつくり出している側面があります。病気になりやすい人と、そうでない人との差は、持って生まれた体質とか運もありますが、 最大の原因はその人の考え方にあるといっても過言ではありません。
病気を治す医者が、実は病気になりやすかったとは、驚きですね。
人間は、相手の不全(期待)と自分の不全(期待)を同一視する共感回路(共認機能)を持っているので、病気の人に同化することが仕事である医者にとっては、必然のことなのかもしれませんね。
■重かった背中の荷物をどう軽くしたか
世の中には重い病気の家族を抱えて困っている人もいます。また自分が病気になって家族に迷惑をかけていると、心苦しく思っている人もいることでしょう。どちらも病気治癒によい心理状態ではありません。そこで参考までに私自身のことを述べてみたいと思います。
私の子供は先天的な病気で言葉をしゃべることができません。そのような子を授かったことで、妻は悩み続けて心の病気になりました。そのうえ、母は私が開業した頃、すでに肝臓ガンに侵されていました。父は医者でしたが、脳出血による半身不随で、自分でトイレにも行けない体でした。
ふつうはこれだけ病人を抱えると、そのストレスは相当なもので、私自身も病気になって不思議ではないと思います。ところが何の因果か、私は健康そのものでピンピンしています。なぜ私が健康でいられたのか。一時期は私も悩み苦しみましたが、あるとき子供時代に読んだ一冊の本を思い出したのです。その本にはこう書かれていました。
「神様はその人の背中に背負えるだけの荷物を背負わせてくださる。ただ、その人の背中の大きさに見合ったぶんだけしか背負わせてくださらない」
それを読んだとき、子供の私は神様にこうお願いしたのです。
「神様、僕は困った人や病気の人の荷物を背負ってあげたいのです。たくさんの荷物を背負える大きな背中をください」
そのことをフッと思い出した瞬間、私は納得したのです。わざわざ病気の素質のある嫁さんを探して、病気の子供を選んで、親も病気になって、仕事も難病の患者さんばかりを相手にして‥‥そうか! と思ったら、それまでずっしりと重かった背中が急に軽くなりました。
よくよく見てみると、子供も妻も私ほど悩んではいないのです。子供は私に会うとニコッと笑います。その子を見て妻も嬉しそうにしています。
父はよくつまづきますが、いっこうに悩んでいなかった。
母が死んで、面倒を見る人がいなくなって施設に預かってもらったのですが、母親が死んでからは生きることに興味を失いました。それでも父としての威厳は失わず、人に「どうこうしてくれ」とは一言も言わず、一人で死んでいきました。
その1年ほど前に、母は病院で私と弟にみとられて亡くなりました。直前までガンの告知をしなかったこともありますが、母が自分の病気で取り乱した姿を見せたことはありませんでした。
みんな自分の生を一生懸命に生き、死ぬ時期がきた者は死んでいきました。人間は生まれた瞬間から死を約束されている存在なのだから、自分らしく生きればいい、自分が思った通りに精いっぱいわくわくすることで生きればいのではないか――そう思いました。
そうしたら不思議なことが起こりました。自分のことで悩んでいたときはドリンク剤を飲まないと元気にならないし、それでも疲労から気の萎えることがしばしばだったのに、どこからかエネルギーが生まれてきて、私は疲れを知らず、何をやっても楽しいという人間に生まれ変わっていたのです。
るいネット:『『快癒力』篠原佳年著(2) ~病気は自己を成長させるチャンス~→リンク
からの続きです。
────────────────────────────────────────────────────────────
「病気になることは捨てたものではない」という部分に共感を得ました。自身の身体の状態を症状として発信する身体の声を大切にする必要があると感じます。また、これらを乗り越えることで、身体の適応能力も向上されていくという認識は忘れがちです。今一度、悪いところがあれば医者にいけば直るといった思いを捨てる必要があると感じます。人間は500万年もかけて適応してきました。その大切な機能である自然治癒力を今一度見直しが必要だと思います。
~中略~
■病気になるのも捨てたものではない
自然治癒力という言葉を聞いたことがあると思います。体には、医者や薬の世話にならなくても、きちんと癒すシステムが備わっているのです。病気が治るのが自然治癒力だとすると、病気になるのは自然治癒力が弱まったときということになります。しかし、病気が治るだけが自然治癒力ではない。病気になるのも、実は自然治癒力なのです。
たとえば何か悪いものを食べたとします。食あたりで下痢をする、嘔吐をする。これは見かけは病気です。しかし、私は下痢も嘔吐も自然治癒力だと思います。なぜなら、下痢や嘔吐は、体に侵入した悪い食中毒菌や異物を早く体外に出そうとする作用です。体をもとの健康体に戻そうとする意味においては、このような症状も自然治癒力と考えられるのです。
こういう考え方をすると、体が異変を起こしたとき、それをあわててもとに戻そうとするのは間違いであることがわかります。病気をすべて悪者にするのがおかしいのです。病気はどこかバランスがよくないことを教えてくれている。そしてバランスをとろうとしているのです。病気になったら、自分のどこがいけないのかを考えてみるという姿勢が必要です。
私のところへはリウマチ患者さんが大勢来られますが、私が前から気がついている不思議な事実があります。それは、リウマチにかかった人でガンを患う人はほとんどいないといってよいことです。
ある病気になることは別の病気を防ぐことであると考えれば、自分の病気への愛情も出てくるというものです。
「病気を不運だと考えたり、不当だと考えることは治癒の妨げになる。病気を成長のための贈り物だと見なせるようになったとき、治癒系のブロックがはずれ、治癒が始まるのだ」(アンドルー・ワイル著『癒す心、治る力』角川書店より)
実際に多くの患者さんに接していると、難病の人で地位、名誉、財産などにこだわっている人は一人もいません。この人たちがとらわれていることは、ただ病気だけなのです。
病気が治ってしまえばどうなるのかはわかりませんが、少なくとも病気にならなければ「考えない」「わからない」ことが絶対にある。そういうことを考えるチャンスを与えるために病気が与えられるのかもしれないという見方もできます。
病気は自己を成長させるよいチャンスといえます。人間は三日生死の境をさまようと聖者になれる、といいます。病気になったら「自分を考えるチャンスが訪れた」と前向きにとらえることです。
確かに、大病を乗り越えた人は、人が変わったなんてことはよく聞きますね。
そう考えると、「病気は自己を成長させるよいチャンス」ととらえることができそうです。
■助けるつもりで命を奪っていないか
現在の医療現場で行なわれていることを、みなさんはどう思われますか。
病院だから病気の人を治しているだろう、医学は進歩しているから、いまは治らない病気もやがては治るようになるだろう――もしこう思っておられるとしたら、失礼ですがかなりお人好しの見方といわなければなりません。医療現場がやっていることは、そんなことではありません。患者さんに病名をつけて、ほとんど治らない治療を施し、症状は少し和らぐが副作用の恐れのある薬を出し、そしてほとんどの患者さんを治していません。
立派に見える医療施設や装置の大半は病気探しの検査に使っているもので、病気治しとはあまり関係ないのです。それでも当事者たちは悪気でやっているわけではなく、彼らなりに精一杯のことをやっていると思っているのです。そういったことに慣れてしまったのです。
救急の患者が病院に担ぎ込まれると、医師も看護婦も「なんとか助けよう」と必死になります。その場合にだれもがやろうとすることが、症状の安定ということです。呼吸が苦しそうなら、呼吸を整えさせようとします。しかし、これが大変な間違いだとは気づかないのです。
呼吸が荒いということは肺が一生懸命に息をしようとしていることです。息をするのはそれが必要だからです。体のなかの酸を二酸化炭素として肺から出そうとしている。だから息を止めてはいけないのです。
ところが息が荒いのは見た目には苦しそうに見える。そこで看護婦さんも家族も「楽にしてやりたい」と思い、酸素マスクをかぶせたりする。酸素を吸うと、当然呼吸回数が減ってくるから、体の酸が出せなくなる。体はアッという間に弱ります。
見た目は息が穏やかになって「落ち着きましたね」などと喜んでいるのですが、実は患者さんは二度と帰らない旅に出ていこうとしているのです。
なかには生命力の強い人がいて、酸素マスクをはねのけたりする。そうすると「暴れています」などといって、今度は鎮静剤を打つ。鎮静剤を打たれると筋肉が弛緩して、ますます息がしにくくなる。これでは助けるつもりで、逆に命を奪っているのと変わるところがありません。
それでもだれも悪意はもっていない。みんな当たり前のことをしているつもりなのです。「おかげさまで静かな息をしています」「よかったですね。しばらく様子をみましょう」。いくら様子をみても、患者さんが生きようと最後にふりしぼった力を邪魔して削いでしまったのですから、よい結果か出るはずはありません。
これはほんの一例ですが、西洋医学というのは、目に見える症状の改善にばかり意識を向けていて、病気の本質というものを見誤っている。
いまのやり方を続けているかぎり、病気はほとんど治らないし、それどころか病気になる人はますます増えていくでしょう。
私は医者になって20年がたちますが、現在の医療のあり方を根本的に改めることなくして、病人と医療費だけが増え続けるという事態を変えることはできないと思っています。
以上引用終わり。
さて、20年以上も医療現場に携わった篠原氏が上記のように言っている事実を皆さんはどう受け止めたでしょうか?
そうはいっても病気になった患者は具体的にどうすればいいんだ?と思ってしまう人も多いと思います。
続きが気になりますね!
次回は、そのあたりの具体的な行動方針について扱っていきます。
お楽しみに!
~続く~
投稿者 d0020627 : 2012年08月02日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2012/08/1295.html/trackback