不登校どうする?!12~学校へ行くのは「仲間がいるから」?!~ |
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2009年01月17日
不登校どうする?!13~「いじめ」って?!~
現在子ども達に学校にいく意味を聞くと、「友達に会いに・・・」と返って来る。最近の子達はすごい友達大好きなんだ♪って嬉しく思いましたが、その仲間収束、良い事ばかりではないようです。
なぜかと言うと、それは仲間収束している分『いじめ』がおこりやすい状況を産んでいるようなのです。
どうして仲間収束が強いと『いじめ』に繋がるのか?!矛盾しているかのような現象ですが、それが、子供達の向き合っている「現実」。
不登校どうする?!シリーズ12は「いじめ」に迫ってみようと思います。
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『仲間圧力と認識仲間』によると
仲間世界の圧力として最初に登場したのが「いじめ」である。いじめの中身が以前とガラッと変わりだした。だれもがいじめられっ子でいじめっ子でもある。
そこでは、私権という収束軸が衰弱し私権仲間としての強固な結びつきが薄れたために個々の関係は希薄化し、更には表層化している。にもかかわらず、私権という統合軸をうしなって深い統合不全(⇒答え欠乏)を孕んだ子供たちは、(原猿と同様に「どうしたら良いか」の答えをもとめて)極めて強く仲間に収束する。こうして、子供たちの世界で仲間圧力が絶対化する。
その結果、仲間関係は最大の関心事でありながら、上手くそこに入り込めない者には、最大のストレスの場にもなってしまう。当然、充分な充足や関係の深化は望めない。仲間世界は絶対に捨象できなくて、絶対に充たされない・・・非常に葛藤した状態に置かれるのである。その原因をつくりだしたのは、私権統合の崩壊であるが、それ以外にも重要な犯人がいる。それが「課題のない中での仲間収束の蔓延」である。
課題がない中で仲間収束の圧力だけが高まれば、当然足の引っ張り合いに終始するのは自明であるということだろう。
私権観念の崩壊で、課題圧力がない+仲間収束ということが、いじめに繋がっている。また、課題のない家庭では教育機能を失って、子供に安心感や人を信頼する心=共認機能を授けることが出来なくなり、やりたいようにさせて子供の自我を育成させてしまっていることも背景としては大きいようです。
自我は、学校などで課題圧力が高ければ発現するものではありませんが、課題圧力が弱く、仲間収束した子供達は、自我に左右されて、不在の仲間を「いじめの対象」とする自我共認することで、課題収束してしまいます。
だからこそ、とくだんのいじめられる理由もなく輪番制でおこるいじめが横行し、そうした仲間のいじめ圧力に耐えられなくなった子供達が、不登校となってゆくのです。
『“いじめをなくそう”ではなく“いじめに代る課題を”』によると
仲間収束という現実に立てばまったく異なる答えが見えてくる。つまり仲間で共有できる課題が必要なのだ、ということが・・・
問題解決の糸口は“いじめをなくそう”というスローガンではなく、“いじめに変わる課題”をいかに提示できるか、にある。
そうして、家庭も、学校まっとうな課題圧力を子供達にかけることで、子供達の自我を封鎖し、共認充足の可能性に繋げていけるように思います。それには、どちらも密室では出来ません。
そういう意味では情報公開とは事実を明らかにすることとイコールであり、閉塞した学校や家庭という空間を越えた社会空間によってのみ可能になる。(略)
いじめ問題とは共認社会の鬼っ子のようなものであり、真っ当な社会共認空間を作ることができれば解決される。
いじめ→不登校という流れを絶つには、学校も家庭も情報を公開(インターネットを活用)して個人的(家庭的)課題を みんなの課題として、社会空間に提示できるかにかかっているように思います。
家庭も学校も情報を公開して個人課題→みんな課題として提示できるか!がいじめ(不登校)がなくなる道のように感じます。
投稿者 shijimi : 2009年01月17日 TweetList
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