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2008年11月15日

姥捨て山

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いろんなサイトで紹介されています。 例えば、参考サイト 姥捨て山
そして、楢山節考として映画化され、多くの人の共感を呼んだようです。

“姥捨て”が、なぜ行なわれていたのか?
1、貧しいための口減らし
2、お殿様の意地悪

と大きく2分されるようです。

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1、集団として生き抜くために共認原理に基づいた規範(慣わし)
2、決まりには、逆らえない=序列原理(私権原理

と相反する原理に基づいていますが、

1、では、“相手を想う気持ち”が痛いほど伝わってきます。
2、では、“みんな必要”。
と、
まるで、なんで屋さんのカードのようです。
誰もが求めている、感じている潜在思念に響いてきます

では、実際“姥捨て山”があったのかどうか?

無かった。あくまで仏教に基づく言い伝えである。と言われている方や
参考サイト 
飢饉が何年も続けば、当然その様なこともあっただろうし、少なくとも産後間もない子供の間引きなどを考えると、それに近いものはあったのだろうと想像できます。
一方で、こんな内容のものもあります。 
「姥捨て山」

実際の姥捨て山では意外と村人からの差し入れもあって、何とか生き長らえていたという説もあるようです。(捨てられた季節にもよると想像しますが・・・)今の老人ホームではありませんが、老人同士和気藹々と生き長らえていたという話もあるようです

吹きだしてしまいました。なんと長閑な事だろうと・・・・。

現代を振り返って見た時に、

医療制度による高齢者負担の事を、
現代の「姥捨て山」だと(野党の)国会議員や、マスコミが声高に叫んでいますが、
あまりにも、目先的です。 参考サイト

しかし、年金生活を前提にしているから、そんな話になるのであって、僅かながらのお金をもらって永らえることが、本当に求められていることなのでしょうか?
仕方なく若しくは、知らず知らず(年金)制度ありきの中での思考に留まっていないでしょうか?

そんなに、昔まで戻らなくても、ほんの数十年前まで、田舎であれば、田畑があり、家がある=生活基盤が整っているという前提になりますが、年金を当てに生活を営んではいなかった。たいていの老人は、孫のおこづかいぐらいにしか使い道が無く、むしろ死ぬ(直前)まで何らかの役割があり、可能な限り働いていました。そのことの方がお金をもらう事よりも活力に結びついていました。

都市部では、生活基盤、とりわけ生産基盤が失われると同時に社会から切り離され“消費するだけの存在”に成り下がらざるを得ない状態になっています。

医療負担をいくら負担してもらうかを議論するよりも、「姥捨て山」で説かれているように、誰もが必要とされる社会、そして役割を創りだしていくかが課題でもあります。

介護や幼児・子供の世話など、全てがアウトソーシングされ市場社会に取り込まれていますが、いくらでも、担ってもらうことが出ます。役割を担うことにより対価をもらう。そのことの方が余程、活力に繋がり、結果として国家予算の中でも年々膨れ上がる“福祉”の支出が低減されることになるのではないでしょうか。

投稿者 sodan : 2008年11月15日 List   

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コメント

>誰もが必要とされる社会、そして役割を創りだしていくかが課題

姥捨て山のサイトを見ました。一見、過去の厳しい、悲し逸話として、流布されていますね。
深刻に考えていましたが、山奥に捨てられても、村の人々が面倒を見ていたのでしょうね。

いままで、村の村落共同体を培った人々を敬わないわけがないし、最悪、捨てたとしても、何らかの共同性の強い日本人にとっては、sれは許しがたい行為であったのだろうと思います。

誰もが役に立てる社会。それは、年老いて体力や知力が衰えても、いつでも集団や社会と繋がっている。そんな社会が必要とされているのだろうと思います。

インターネットなんか、十分に活用できるように思いますが、一躍をかってくれると思いますが、どうでしょうか?

投稿者 2310 : 2008年11月18日 09:09

インターネットには、可能性がある。
だからと言って、70、80歳のおじいさん、おばあさんに
「じゃあ、ネットで発信お願いします。」
と言ったところで、
「わしゃ、もう、ええよ。」
と言われてしまうのが落ちのように思います。

それらを、繋ぐものがあるとすれば、
サロンではないだろうか。
ネットサロン形式であれば、手馴れた人が、入力してあげることができる。また、返信があれば、それを、読み聞かせてあげることが可能である。

所謂、かつての“口伝”というスタイルが
活字かつ、より多くの人への発信となる。反応もそれだけ大きくなる。

私権を求めて都心部へ。都会、田舎問わず核家族化。田舎は過疎化し、伝えるべき相手が=次代を担う若者がいない=分断されてしまっている。

おばあちゅあんの知恵袋ではないが、年配者ならではの生きる知恵や体験が埋もれてしまっている可能性が十分ある。

それらを再生させるものとして、インターネットに可能性は十分あり、それを十分引き出し、繋ぐ媒体=ネットサロンがあって初めて活きて来るのだと思います。

投稿者 sodan : 2008年11月29日 12:01

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