明治時代における通俗教育 |
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2007年09月14日
教員の力量不足は教育学を学んでないから?
1945年、第二次大戦の敗戦により、日本の教育制度はアメリカ式のものへと変えられた。
そして、教員の養成機関も旧来の師範学校から新制大学の教育学部や学芸学部へと変えられた。
その際、各大学の教官登用審査において重視されたのは、研究者としての資質だった…
しかし、それは大きな勘違いだったのではないだろうか?
ということで、続きの前にポチッとお願いします。
戦前の教員養成機関である師範学校は明治期以来のものであり、1886年(明治19年)の師範学校令制定以降、高等師範学校と尋常師範学校が設置されていた。
師範学校の大きな特徴として挙げられることは、授業料が免除され生活保障もされたため、優秀なのに貧しくて大学に行けなかった人材を多く集めたという点だ。(リンク)
師範学校は、卒業後教職に就くことを前提に授業料がかからないのみならず生活も保障されたので、優秀でも貧しい家の子弟への救済策の役割を果たしていた。師範学校→高等師範学校→文理科大学というコースをとれば、学費無料で中等学校→高等学校→帝国大学という正規のルートに匹敵する教育が受けられたため、経済的な理由で進学を断念せざるをえない優秀な人材を多く吸収した。
戦後になり、(悪名高き?)GHQの指示により、軍国主義教育の温床となったとされた師範学校制度は解体され、アメリカ式に大学の中に教員養成課程を置くようになった。
その際の教官登用審査では、教員としての実務ノウハウよりも研究者としての資質が重視され、その結果、教員養成機関の校風は大きく変わった。(リンク)
大学への移行に伴う教官の審査では、当然研究者としての実績が重視されたため、黒板の書き方や学級経営など実務ノウハウしか持ち合わせなかった旧制師範時代の教官の多くは審査の結果不適格として教壇を追われた。このためこの時期に大幅に教官を入れ替えた学校が多く、また県内の師範、青年師範のキャンパスも順次統合されていったため校風は大きく変化した。
以上のような大転換を経て、現在の制度では、大学の教育学部はあるものの、あらゆる学部から教員免許を取得できることになっている。
そして、そのことから、専門の教育学を学ばなかった教員の力量不足が指摘されるようになっているらしい。
力量不足の教員が居ることは事実だと思うが、はたして、専門の教育学を学んでいないことがその原因なのだろうか?
昨今、問題視されている小中学校の教職員に求められる最も大事な資質とは、教育現場で子供たちと真正面から向き合い、導いてゆけるということのはずだ。
社会のパラダイムが大きく転換しようとしている状況の中、新しい意識潮流の最先端にいる子供たち と向き合うときに、定説化された教育学の理屈に回答を求めてもダメなのは明らかではないだろうか。
戦後導入されたアメリカ発の教育学を学んでもダメなことは、今のアメリカ社会の惨状をみれば明らかだろう。
今の流れのままでは、戦後の教育制度の改変で、実務軽視・研究重視へと大きく舵が切られたあたりの大きな勘違いをまた犯そうとしているとしか見えない。
by わっと
投稿者 wyama : 2007年09月14日 TweetList
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コメント
投稿者 こん
こんさん、コメントありがとうございます。
>教育学や何学???なんて、いくら観念の先っぽで覚えたって、無意味だということ。
同感です。
特に、公立の小中学校では、教師同士の関係も希薄化していて、先輩が後輩に現場での経験などを伝えることもなくなっているようです。
何が必要なのかというところから、大人たちの認識を改めてゆくことが必要だと思っています。
投稿者 わっと
観念教育先行型の指導や教員育成では、学校の秩序や体制が崩壊するばっかりです。
教育学なんてくそ食らえと思います。
それよりも、何よりも、人に同化する、共鳴する、共感する、共認することさえできれば、なんだてできるはず。
教育学や何学???なんて、いくら観念の先っぽで覚えたって、無意味だということ。
感謝のトレーニング【ありがとう、そしてごめんなさい】を毎晩、寝る前にみんな思い起こすことのほうが、よほど、糧になるです。
そうして現実を直視できることにあんるのでは・・・なんて思いますが・・・