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2007年09月06日

子育てに自然を取り戻すのはむずかしいけれど、お母さんだけに荷を負わせてはいけない!

解剖学者の養老孟司氏(「バカの壁」の著者)の子育て論を見つけました リンク

子育ては、「ああすれば、こうなる」式の「機械の世界の認識」では対応できない。「覚悟」すること、勉強でなく「やってみる」ことが重要と言う。現代それができなくなったのは、共同体が失われ、「子供は社会共通の持ち物である」という意識が、なくなってしまったためだという。

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*なぜ、みな子育てが苦手になったのだろう?

少子化という現象がなぜ起こっているかということを、ごく常識的に考えると、
今、皆さん、子どもの扱いが苦手なんだ、ということでしょうね。
世界を大きく分けると、<人間が作った世界>と<作っていない世界>、
つまり<人工>と<自然>に分かれます。
子どもはどちらに属するかというと、実は<自然>の世界なんです。
自然の世界に属している子どもを、
人間の世界へひきこんでいくという過程が、子育てなんですね。
この自然、というのは、人間が設計することができないものという意味です。
今、それに対して、どう扱っていいか分からなくなっているんです。

*「ああすれば、こうなる」の考え方は子育てには適さない

つまり結果を予測しておくという考え方ですね。
これは、機械の世界の話なんです。
機械ならば人間がシステムを作っているわけで、
「ああすればこうなる」というのはわかる。
社会の制度もそうで、人間が考えて作ったのだから、
「ああすればこうなる」というふうになっているわけだけど、
自然はそうなっていません。全部読みきれるものではない。
「ああしたから、こうなる」とは限らない。
たとえば、そこらへんで石につまずいて足の骨を折ったら、
社会では「ここに石があるから怪我をした、
誰がこんなところに石を置いたんだ」という話になりますね。
たんぼや畑でそれを言ったってだめじゃないですか。
石がころがってるのは当たり前だ、気をつけて歩け、となるわけですよ。

*子育てには覚悟が必要。見てるしかない

一言で済ませましたよ、「覚悟しよう」と。
「こういうことが予想されるけど、こうなったら、どうするんですか」と聞かれたら、
「覚悟しとくしか、仕方がないなあ」と言ったんですよ。
安くつくでしょう、一言で(笑)。 元手いらないからね、気持ちを持っとくってだけだから。
子育てにも覚悟が必要なんです。 だけどもう子ども持つ覚悟がない。
今、「覚悟」は死語でしょう。
少子化になるのは当たり前ですよね。
子どもが産まれたら、こんなことも心配、あんなことも心配、って
結果を予測しようとする。「ああすればこうなる」の考え方ですよ。
だけど、子どもは見てるしかしょうがないんです。
稲育てるのと同じだよ、「お前たくさん実をつけろ」と言ってもだめ、
肥料たくさんやったらいいか、と言っても、やりすぎると枯れちゃいますからね。
百姓をやっていれば分かっていたことを、
今は、子育てを通じて勉強しなきゃいけないんだね。

*子育ては勉強するものじゃなく、やってみるもの

子育てに関する情報を欲しがるのも、「ああすればこうなる」をやろうとしているわけ。
そうはいかない、って。
子育てなんて、勉強するもんじゃなくて、やってみるもんだろ、って。
当たり前のことです。
放っておいても子どもは育つ、と僕もしょっちゅう言っています。
誰だって、初めての経験なんですから、試行錯誤してやっていくでしょう、
そして間違いは間違いでやっていく、
そのときに何を信用するか、といえば、
そうやって人間5億年、背骨ができてから5億年続いてるよ、って
それでしょう。それが一番信用がおけることであって、
それ以外、何にもありゃしない。
5億年やってきたことが、できないわけがない。

*すべて、お母さんが抱え込んでいる日本の大変さ。

母子関係を考えてみると、
僕が子どもだったころと、今とくらべて一番違うな、と思うのは、
間違いなく、子育てに共同体が参与しなくなったということですね。
僕は、よその大人に怒られて育ったんです。
うちは母子家庭で、母親は医者でしたから、子どもの面倒は見切れない。
そこで外で悪いことすると、よその大人に怒られていた(笑)。
それはもう、当たり前のことでしたからね。
よその人が、いろんな文句を母親に言ってくれる。
それは全員で子育てしている、ということなんです、逆に言えば。
その雰囲気は、今もうまったくないでしょう。
すべて、お母さんが抱え込んでる。

*子育ては共同責任なのに。

当たり前の話だけれども、義務教育がなんで義務教育かと言ったら、
将来の社会を背負っていくわけだから、全員がそれを負担しましょう、という
話でしょう? それは義務教育に対して金を出す、ということに
限らないので、赤ん坊の段階からして、同じことです。
将来の社会を彼らが背負っていく。
それをちゃんと育てるのは、現代の社会を作っている構成員全員の
いわば共同責任の部分がある。
そこのところがはっきりしなくなって、母親だけが責任を負う。
それが夫婦間にも問題を起こしている。
共同責任なんて、昔は何でもなくやっていたことなんですよ。
僕だって、しょっちゅう怒られてた(笑)。
そうやって育ってくれば、隣近所の子だって他人の子じゃねえやと。
それだけのことですよ、何も難しいことではない。
それが都会の生活になると「よけいなお世話」になっちゃった。
だけど、そこにあったのは、ある意味では非常に深い原理で
「よけいなお世話」どころではなかった、という話ですね。

*母親に持って欲しい“子どもは社会共通の持ち物”意識

お母さんが、子どもというのは<社会共通の持ち物>であるという意識を
もうちょっと持つことです。
それから社会全体も、母親に全部の責任を負わせるっていうことを
してはいけないのだと認識しなおす必要がある。
両方ですよ。これは両者関係だから、なかなか難しいんです。
それが具体的に託児所の問題、保育所の問題、つまり
社会が子どもの面倒をどの程度見るかということに翻訳されてきている。
それをお金で片付けよう、というのは二次的な問題であって、
まず根本に、子どもは次代を背負っていくんだから、
全員の責任がそこにあるんだ、ということを
お互いに了解に達する必要がある。

投稿者 fwz2 : 2007年09月06日 List   

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