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2020年07月16日

学校が全てではない。かつてはこの世のすべてが学校だった。

学校とは学び舎のこと。もともとは学びたい者が集まり、互いに学び合う場のことでした。しかし今の学校は本人の意思とは関係なく、強制的に勉強をさせられる場になってしまっています。

本当の学校って何だろう?

今回は本来の教育の在り方について考えてみます。

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以下(http://www.fujitsubame.jp/educationa.html)より引用します。
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結論から言えば、学ぼうとする者が、教育権を取り戻す事である。教育権は、裏返すと学習権である。学ぶものが教育権を取り戻すという事は、学ぶ権利を取り返すことでもある。
学ぶ事の意義とは、自分が、生きる為に、幸せになる為には、何が必要かと言う事につきる。生きる為には、経済的に自立する事が、必要要件である。つまり、何らかの、プロになる事である。現在のような貨幣経済下では、金を儲ける事、金儲けができる事が、経済的な自立の前提条件になる。プロになると言う事は、何らかの専門家になることを意味している。
金儲けが全てではないが、金儲けを蔑視していては、経済的に自立する事はできない。

次に考えなければならないのは、誰が、教育の担い手かと言う事である。従来、学校だけが、教育をしてきたわけではない。学校だけで、教育をしてきたわけでもない。大体、学校教育が、確立したのは、明治維新以降である。つい最近である。学校だって、せいぜい百年なにがしかの歴史しかない。問題なのは、就学生が、学校が全てであるように思いこんでいることだ。時間的にも、空間的にも、社会的にも、学校が、全てであるように思いこまされていることだ。だから、逃げ出すことができない反面、卒業した後、学校の外の社会に、適合する事のできない大人を、沢山生み出す結果になる。

これらを前提として本来の教育の在り方を考えてみよう。

先ず、自分達の生き方や考え方に適した学校がないならば、自分達で学校を作ればいい。その場合、時間的、空間的に縛られる必要がない。自分達が何かを学びたいという意志をもった時、自分達が生きていく為に必要だと思った時に、そして、自分以外に同じ思いや志を持った人間に出逢った時に、学校は、始まる。
何かを誰かに教えようと思って時ではなくて、学びたいと思った時にこそ、本当の学校は生まれるのである。それが、学習権である。
学校という言葉自体、学舎(まなびや)という意味である。つまり、学ぶところなのである。

物理的空間に拘束される必要もない。喫茶店で、共通の課題を学びたいという者が複数集まれば、その場は、教室となる。

かつては、いろんな処に学校があった。家庭では、両親が躾をし、職場には、徒弟制度があった。青年団、若衆宿で、人付き合いや異性との付き合い方を先輩から仕込まれ、同時にその土地のしきたりや作法を教えられた。子供達は、炉端で古老から昔話を聞かされ、生きる為に最低必要な社会の決まりや掟を学んだ。その上、寺や神社で読み書きソロバンを教わり、浪曲や浪花節、講談や落語によって人々の生き方や歴史を学んだ。子供は、子供同士で、野原を駆け回り、自然から多くのことを学んだ。喧嘩をしたり、遊んだりしながら、子供同士の付き合いや社会の在り方を勉強した。この世の全てが学校だったのである。この様な多様多彩な学校によって、子供達は、自ずと個性的で、豊かに、また、均衡のとれた人格を形成してきたのである。真の学校とは、そういうものである。

先ず、学校という閉ざされた空間から、子私供達を解き放す事から始めなくてはならない。学生は、学校しかないんだという閉塞感から、自分を解放する事である。学ぶ気があればどこでも学校がある。
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かつては世の中、社会のすべてが学校であり、その中で生き方や人間関係、歴史や基礎的な学力を身に着けてきたのです。

それが明示以降、社会と隔絶した空間でひたすら知識を詰め込まれ、試験でふるいにかけられる学校が唯一の学ぶ場?になってしまいました。

学校がすべて、学校に行くのが当たり前・・・という常識は高々150年のこと。もっと長い歴史の中で私たちが何を、どのように学んできたのかをよく考え、これからの学び舎をつくっていく必要があります。

投稿者 hoiku : 2020年07月16日 List   

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