学校が全てではない。かつてはこの世のすべてが学校だった。 |
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2020年07月23日
役に立たない勉強をさせ続ける親、教師たち~受験幻想を捨て、本当の学びを再生しよう。
なぜ勉強するのか。
あなたの将来のため?いい学校、いい会社にはいるため?
今の子供たちにとって、それが答えになっていないことは明白です。
でも多くの親や先生たちは相変わらず、「将来のため、あなたのため」と考え、そう答えているのではないでしょうか。
今回は子供たちに押し付けている「勉強」について考えてみます。
以下(http://www.fujitsubame.jp/jiyuu301.html)より引用します。
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なぜ、勉強をするの。この根本的な問いに、どれだけの親や教師が、答えられるだろう。
曰(いわ)く、良い学校に行くためよ。ジャア、なぜ、良い学校に行くの。良い会社に勤めるために。なぜ、良い会社に勤めるの。良い会社に勤めて偉くなるために。なぜ、偉くなるの。お父さんみたいにならない為よ。これでは、説明にならない。人生にとって一番大切で、楽しい期間を無為に過ごさせる以上、親は、子供にきちんと説明する義務がある。
子供達も馬鹿ではない。子供達でも、今勉強している事は、自分が、これから生きていくうえで、何の役にも立たない事は、すぐにわかる。子供達だけでなく、親も、教師も、大人達、皆わかっている。だから納得のいく答えをしてやることができない。そして、力ずくで、相手の意見を押さえ込んでしまう。ただ、勉強しなさいだ。成績が悪いと人格まで否定される。
あげく、勉強など世の中の役に立たなくていい。役に立たないことを、勉強するところに、意義があるなどと、訳のわからない事を、言い出す始末だ。
今の教育には、根本的なことが、欠けている。それは、社会に出て、生きていくためには、何が、必要かと言うことである。それを言うと多くの教師は、それだけではないという。確かに、学ぶべき事は、それ以外にあるかもしれない。
しかしそれでも、教育の根本は、直接的であろうとなかろうと、社会に出て、生きていく上に、役に立つことである。
教育とは、読んで字のごとく、教え育てる事である。現代教育では、教える事ばかり、問題にして、育てると言う事を忘れている。
社会に出てから、何の役にも立たないとわかっている事を、強制的に勉強させようとしたら、強烈に反発を受けるであろう。実社会では、役に立たない勉強はさせない。なぜなら、それは、時間と労力と金の無駄になるからである。そんなことをさせても、何にもいいことはない。これは、常識の問題である。しかし、学校の現場では、この常識が通用しない。
子供達が自分たちが勉強していることに疑問を感じた時、まず、最初に、感じるのは、自分たちが、学んでいることは、現実に生きていく上に、何の役にも立たないと言う絶望感である。
しかも、そのことを、親も、教師も知っていると言うことに、すぐに、子供達は、気がつく。このような関係の中で、親や教師に対し、信頼感が、生まれるであろうか。違う。違う。親や教師に、騙された、裏切られたという思いだけが残るだけである。最も、生きていく上で大切なもの、親や教師との信頼関係、それが、最初に裏切られるのである。この世の中は、誰も信じられないと思いこんでも、不思議はない。その結果、絶望的な人間不信が植え付けられる。これが、戦後教育の成果である。
こんなていたらくで、教師や親が、子供に、嘘をつくな、人を騙してはいけないといったとしても、子供たちは、素直に言いつけに従うであろうか。教師や親たちの言動は、最初から、矛盾している。無理がある。
我々が、アメリカに仕事をしに行く時、我々は、中学校の英語の教科書を開くでしょうか。誰も開かない。それは、中学の教科書は、アメリカで仕事する時に、何の役にも立たないことを、皆、知っているからである。
アメリカで仕事をしようとしたり、外人と話をしようとしたら、大概の人は、英会話学校へ行くだろう。しかし、この様な英会話学校は、正規の学校ではない。正規の学校で教えている英語が通用せず。正規でない学校で教えている英語が役に立つのか。しかも、英会話学校では、英会話ができるようにするのに、六年もかけはしない。そんなに時間をかけたら、誰も、英会話学校には行かない。この様な英語を実用英語と呼ぶ。
なぜ、日本には、実用英語なるものが、存在するのか。つまり、学校で習っている英語は、実用的でないという事を、暗黙に、認めている事を意味するのではないか。
では、実用的でない英語とは何か。言葉とは、コミュニケーションの道具にすぎない。実用に役に立たない言葉など存在意義がない。
しかし、我が国では、実用にならない英語が重んじられ、実用英語は軽んじられる。下手をすると、自然な発音を学校で教える発音に、直されることすらありうるのである。
間違った発音を教えるくらいなら、英語など教えないで欲しい。
街を歩くと、多くの外人に出会う。観光旅行で一時的に入国した人達もいるだろう。また、仕事を求めて、言葉もわからないまま、来日している人達もたくさんいる。なかには、不法に入国した者達もいるであろう。正規の教育を、受けていない人も、たくさんいる。正規の教育を受けていない人でも、生きるために必要ならば、それが片言でも、日常会話に事欠かない程度には、日本語が話せるようにになる。
我々は、一体どれくらい英語の勉強をしたのだろうか。片方が、正規の教育を受けていないのに、一年もたたないうちに語学を修得し、一方は、数年間、場合によっては、十年近くも教育を受けながら、簡単な会話すらできない。これでは、日本人は、よほどの劣等民族か、教育が、間違っているとしか言いようがない。では、教育者は、日本人は、劣等なのだと認めるであろうか。それとも、自分達の教え方が悪かったと認めるだろうか。結局、我々の力ではどうしようもない、仕方がないと弁解をし、そして、自分達の責任を生徒達に押し付けるのが関の山である。
私は、大学で物理学を学んだが、大学の教授が真っ先に言われたことは、受験勉強で学んだ事、高校時代で勉強したことは、早く忘れなさいと言う事である。公式なんて自分でみつけだすものだ、暗記してきたらかえって邪魔になる。
つまり、大学での勉強に、受験で勉強をしたことは役に立たないどころか、障害になりかねないといわれたのだ。これでは、何のために夜も寝ないで勉強をしてきたのか、わからなくなる。報われない。しかし、これが受験勉強の実態である。
だから、大学に合格した後、多くの受験生は、虚脱感を感じるのだ。そして、勉強をしなくなる。これでは何のために、大学へ行くのか。
幼児は、なぜ、なぜと、親に聞いてくる。なぜと問うことは、学問の根本である。ところが、学校では、なぜと問うこと自体、禁じてしまう。なぜ、勉強するの。何に、役に立つのと、生徒が、聞くことは許されない。ただ、ひたすらに、先生が、与えた問題を解くことだけに、生徒達を専念させる。
子供達の素朴な疑問や好奇心も、カリキュラムの中で、圧殺されてしまう。勉強する前に、素朴な好奇心も、潰されてしまう。一体、何を、どのようにして、教育しようと言うのか。ゆとり教育とか言う前に、子供達に純真な瞳を見つめてみたらどうか。そこには、学問に対する無垢な萌芽が見て取れるはずだ。
勉強の時間を短くすれば、ゆとりができるのではない。好奇心を持続させることの方が大切だ。子供の素朴な疑問や好奇心は、宝だ。学校は、子供を、親が、やっかい払いする場所ではない。教師の休日を増やすために、授業時間を短くするは、ナンセンスだ。大切なのは、子供の心なはずである。子供の心や感情を無視したところに、教育は成り立たない。子供が学校に抱く、幻滅感を、何とかしなければならない。学校が楽しくてたまらない。家に帰るのが嫌だ。そう子供達が思い始めたら、教育の目的は、おおかた達成されているのである。
なにをもってゆとりというのか。今、言われている、ゆとり教育なるものの過ちは、教育の根本を見失っていることである。
小学校の入学式が近付くと、子供達は、夢に胸を膨らませ、ランドセルを背負って早く学校へ行きたいとせがむ。子供達の希望や夢に、国や大人は、答えているであろうか。子供達の夢や希望をうち砕いているのではないだろうか。
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試験があるから、受験にために勉強する。受験のための勉強だから、未知の課題だらけの社会に出てからは何の役にも立たない。受験勉強が勉強だと思っているから未知に向かう思考力も追求力も身につていない。
役に立たないどころか、追求力を奪い思考停止させる悪害になっているのが現在の学校教育です。親も、教師もそのことに気付いているのなら、いい学校・受験幻想は捨て、学校の勉強はそこそこに、子供の好奇心や追求心をどう伸ばしていけるかを考えていくのが本当の「子供のため」だと思います。
投稿者 hoiku : 2020年07月23日 TweetList
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