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2017年12月08日

元々子供は勉強が好き。それを嫌いにさせているのが学校。

子供は学校に行かないと勉強しなくなる。学校で強制的に教えられることを勉強というならそのとおりでしょう。

しかし子供は遊びの中で学んでいくし、誰からも強制されず興味のあることは「なんで?」「どうして?」と聞きまくりいろんなことを吸収しようとします。

学校に行かないからこそできる勉強というのもあるはずです。

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以下(http://homeshoolclub.blogspot.jp/2013/01/blog-post_6276.html#more)より引用します。
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勉強をするということ

子どもは学校へ行くもの。日中ふらふらしている子どもはありえない。学校へ行かずして大人になることもありえない。とみなが考えている。本当だろうか。

私の8歳の息子はいわゆる小学校には行っていない。正確に言えば授業というものを受けたことがない。入学式のときいくかと聞いたが「行きたくない」と答えたのでそのままホームスクールをはじめた。その後ゆえあってサドベリーに通っているが、毎日遊んでいるだけで勉強らしい勉強はしたことがない。(毎日見ているわけではないので本当のところは分からない)

その息子のことを見ながら感じたことを書いてみたいと思う。

産業革命以前はすべての子どもは親の仕事を受け継ぐことになっていて、親の仕事を見よう見真似で覚えれば生活に困ることはなかった。産業革命のときから現在の国家体制が成立し国民皆兵と産業振興の必要性で、それまでの家業から子どもを引き剥がすべく、学校が作られた。事のついでに兵隊や工場の工員として簡単な読み書きができるようにしたほうが効率がいいというのもあった。
しばらくすると家業は廃れ、仕事はどこかの会社に勤めるものという常識に代わった。そうなるといい会社に入ることが生活の安定につながる。そのためには学校でよい成績を取らねばならないという意識に変わっていった。そしてそれが学歴という形に変わり、大卒が高収入を保証するようになり、さらによい大学に入るためにいい高校、いい中学、いい小学校と順繰りに展開し、今はお受験幼稚園とか早期教育にまで行き着いてしまった。

息子はその道を無視して自ら選んだ道を歩き始めている。なぜ、小学校へ行かないかと聞いたことがある。彼はドラえもんのマンガが好きでよく読んでいるが、そのマンガに学校が出てくるけどちっとも面白そうに見えないと答えた。 私は彼に言う。学校へ行かないということは世間的に言えば異質な行動をしている。学歴がないということはまともな仕事には就けないかもしれないと。仕事に就けないということは生活が成り立たないこともある

「どうすればいいの」と聞いた。私は答えた。二つ道がある。それは他人が思いつかないようなことを考えて、できるようになることだろう。例えば芸術家、政治家、起業家などだね。もう一つは大学に行くことだ。高卒認定を合格し、大学受験にパスすれば誰でも大学に入れる。そのためには16歳ぐらいから猛勉強する必要があると思う。さらに外国の大学に入学するという方法もある。いずれにしろ、学歴は最終学歴だけが問題なのだ。

息子は今ほとんど勉強をしない。そしてよく遊んでいる。

私は勉強をしている時間があればよく遊べといっている。遊ぶことがすなわち学ぶことだと思うからだ。机の前で勉強するのは15歳ぐらいからで十分だと思う。

それでも寝る前の30分ぐらいは「お父さん教えて」と言ってくる。今日は何?と聞くと日によって算数だったり、英語であったり、時折習字ということもある。

そこでそれだけ教えて寝るのだが、半年程度で算数は4桁の小数点を含む掛け算や割り算、図形は立体の容積までを分かってしまった。ところが九九は間違えたり九九表を見ないとできない。でも私は九九は覚えなくていいと言っている。なぜかといえば、九九は死ぬまで使うから自然に覚える。自然に覚えられることに時間を使う必要はないと思うのだ。

歴史が大好きなのでマンガの歴史はかなり読み込んだ。三国志も全巻買って繰り返し読んでいる。そのためかかなり難しい漢字も読むことができる。でも書くことは嫌いで日記を書いてもひらがながほとんどだ。そのひらがなやカタカナも鏡文字が時折入る。でもまったく気にしていない。必要なときがくれば必ず書けるようになるから。

英語は好きなようで、いろいろと本を買ってあげたが結局オクスフォードのリーディングツリーが一番面白いらしい。(この本は結構高いのがつらい)ほとんど、毎晩読んであげている。

理科系はマンガサイエンスが大好きで、それ以外のサイエンス系のマンガも自分の小遣いで買ってきて読んでいる。

ある日、小学校の市民参観日に母親と一緒に行ったが「なんであんなつまらないことを勉強しているの」と聞いて息子は二度と行こうとしなかった。

学校というところはすべての子どもが一斉に同じことを勉強する。理解の早い子はほかの子が分かるまで待つしかない。理解が遅い子は授業が先に行くのに追いつけない。どちらの子どもも勉強はつまらないものだと思うしかないのだ。昼間の時間の半分も使って、何を教えているのだろう。

また5年生にならないと英語の勉強はしないとか、その漢字は6年生で習うから使ってはいけない、3年生にもなってまだできないのかなど、横並びにするために異様な努力をする。

息子を見ていると本来子どもは勉強がすきなのだと思う。でも私が息子を試したり、叱ったり、無理強いしたら二度と聞いてこなくなるだろう。私は息子が教えてといってくるまでは決して教えようとはしない。「でもそうは言っても、次々と本を買ってきたりして誘導しようとしているじゃない」という人はいるが、誘導することと教えることは別だと思う。関心を持って欲しくていろいろと話をしたり、本やおもちゃを買ってくることはあるが無理強いはしない。本人が嫌だといえば買ってきたものが無駄になるが、きっとそのうち興味を持つこともあるだろうと思ってとってある。でも子どもに対し誘導すらしないということは育児放棄だと思っている。

息子が学校へ行けば親は楽できるかもしれないが、息子は我慢して行くことになる。我慢することが習性になると物事を改善したり、改革しようという気がなくなる。どんな会社に入ってもそこの仕組みを受け止めて仕事をこなすだけになるだろう。そのような人がこれからの社会に必要だろうか。

情報化と国際化が世界中を吹き荒れている。単純作業はコンピュータとロボットが取って代わり、さらには工場自体が途上国に移転してなくなっている。独創性を失った企業は消え去るのみだ。

20年後の日本経済は韓国経済の後塵を拝し、途上国と同じレベルまで落ち込むといわれている。それが分かっているかいないかは分からないが、学校は明治維新以降の先進国に追いつけ追い越せの経済環境の状態のままで変わろうとしていない。

息子が大人になるころには日本の企業になぞ頼っていられないことは自明である。そのとき、息子は自分を明確に意識し、主張し、相手の要求とのすりあわせを一人でやらないといけなくなる。教室で机の前に座って先生の言うことをおとなしく聞いている場合じゃない。

だからこそ、今はとにかく一日中転げまわって遊ぶべきで、やがて勉強に興味を持つときが来る。そのとき本人がやりたいことだけに絞ることが必要だと思うのだ。全身全霊で遊んできた子どもにとって分かること、理解することの面白さは全身に響き渡る。そうやって覚えたものは忘れることはない。
それを学校は無理強いすることにより、子どもが我慢し、おびえて、勉強嫌いになるのだ。でもいま学校の仕組みは子どもに無理強いするしか方法がない。だからいじめにしろ、体罰にしろ、学級崩壊にしろ、どうあがいてみても解決できない。

学校の仕組みそれ自体に究極の問題を抱えているのだと私は思っている。
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子供は遊びながら学び、その中から興味を持ったことことを追求し始める。これが本当の勉強なのです。だれかから強制されるわけでもなく(強制されないからこそ)自然と勉強をするようになるのだと思います。

「全身全霊で遊んできた子どもにとって分かること、理解することの面白さは全身に響き渡る。」学校では決して得られない、本当の学ぶことの楽しさ、面白さがそこにはあるのです。

投稿者 hoiku : 2017年12月08日 List   

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