共同保育所の歴史と現在3~子ども・子育て支援新制度へ |
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2017年07月06日
教育の専門家は不要。仕事の魅力を知り、追求している大人に学んでこそ本物の力がつく。
寺子屋や徒弟制度にみる実践的な学びの場を現代に再生したらどうなるだろう?
学校制度のなかで勉強してきた身としてはなかなか想像しがたいテーマですが、勉強してこなかった五味さんの発想には「なるほど」と思わされました。
今回は「学校制度」に代わる「学習システム」を紹介しつつ、これからの教育について考えてみます。
以下「勉強しなければ大丈夫」(五味太郎)より引用します。
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学校はいらないけど学習システムは必要だ、というのが僕の考え。あくまで学習システム。勉強システムじゃないやつ。学習人をサポートするやつ。実に軽やかな学習システムが世の中のあちらこちらに用意されている、それを利用しながら学習人がさらに学習人の磨きをかけてゆく、そんなイメージ。
あ、その前にみなさんお好きな義務教育について。これを無視してはいけませんね。本当に必要な教育。この国で、この風土で健やかに生きてゆくための生活能力を身につけてゆく、これまたシステム。
子どもという存在はその風土にやって来た異邦人である。という感覚が俺にあるの。だからここで使われる文字、言語体体系、ひらがな、カタカナ、漢字、プラス外来語、etc…これらは最低限の意思疎通を図る道具だから、なるべく習得しておくとこの世の中でやり易くなりまーす、というヴィジョン。なるべく、というところがポイント。ある程度でもOK、そのうちだんだん習得できますよ、というやわらかさで。
国語教育に似ているけれども、作文はやりません。文芸文学はやりません。詩の解釈なんてやりません。クマさんの気持ちを50字以内で、もやりません。
そして算数です。文字、言語体系の拡大解釈として取り扱うほうが正解かもしれません。なにしろこの世の中、数字がいろいろと喋りますからね。数字の機能という視点で幼い連中にその有様を伝えておく必要があります。この国はとりあえず10進法でやってます。0がひとつつくと10倍です。でも0だけではなんでもありません。そして基礎は1、2、3、4・・・9という数列です。足したり引いたり掛けたり割ったりして使います。
(中略)
そしてここでも、「底辺×高さ÷2」も「ひろし君は8時10分に家を出ました。とも子さんは8時15分に家を出ました。ひろし君は時速4Kmの速さで歩いていきます。とも子さんは時速15Kmの自転車で行きます。とも子さんがひろし君に追いつくのは・・・」もやりません。
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いわゆる読み書きそろばん。学校で教わったことのなかで、これだけは大人になったいまでも役にたっていると断言できます。逆にそれ以外はなんだったんだろうか・・・
この内容だったら6年間も小学校に行く必要はありません。五味さんによれば一日時間、週に3日も学習すれば十分だとか。
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で、伝統的義務教育の根本的修正ということでイメージする新義務教育ですから、あまり学科を増やしたくはないんだけど、どうしても法律と歴史というやつは入れておきたいのですが、うーん、それはやっぱり学習システムのほうにまわすべきかどうか、ちょっと迷うところだなあ。
(中略)
ここで扱う法律、歴史は、世の中の仕組みのファクターとしての、というつもりなんだ。法律でいうなら、現行の法の理念とその運用、つまり善悪、正否を法律に照らして判断するやり方です、というような説明、誰かの気分で罰したりしてはいけないことになっています、といったレベル。
歴史でいうなら、それこそ今まで人類はなにをしてきたかという客観的なデータ提示。
(中略)
心ある大人たちが次なる世代の子どもたちにどんな歴史を語りたいか。そのことを本気で考えたら、大人もそれなりに整ってゆくと思うよ。ゆかざるをえなくなると思う。なにを子どもたちに語れるか。人間ってなにをやってきたのか。これ、国際的なバランスがどうのこうの、まして教科書問題とか言ってる場合じゃないよね。
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世の中の基本的な仕組みを学ぶのも、道徳とか社会の教科書を読むよりよほど実践的です。ことに歴史は重要。国家の都合で捻じ曲げられた歴史観より、地球史、生物史、人類史、さらに宇宙史といった客観的事実を学び、私たちがどうやって今に至り、どこに向かっていくのか?を考えることが私たち人類の使命のように思います。これは大人自身が知恵を絞って考えなければならない課題です。
そして義務教育をベースにした新しい学習システムについては、
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自分のやっていることをどうしても幼い連中に伝えておきたい、見てもらいたい、ついでに参加してほしいなどと思う人が独自の方法を設定して、学習システムの一員として名乗りを上げる。学者でも製造業者でも落語家でも商業者でも手芸家でも音楽家でも船舶業者でも競馬関係者でもIT関係でも金融業でも料理家でも土産物業者でもスポーツ関係でも医療従事者でも自称芸術家でも誰でもいい。それなりの施設と独自の教材なりを用意してスタンバイするわけ。興味のある方、関心のある方は見てね、来てね、ちょっと習ってみたら?という具合です。なるほど、では行ってみましょうか、のぞいてみましょうか、学習してみましょうか、ということです。
要するに、幼い連中にとって魅力的な場はどういう所なんだろうって大人が真剣に考える。そこがこのシステムの重要なところだよね。でもその魅力的というところは、当人がやっていないとなかなかわかたないことだから、たとえば料理人は他人にはわからない料理をつくる面白さを絶対知っているはずなんだよ。そういう自分の仕事に大なり小なり魅力を感じていることが大前提だよね。つまり、現場でやっている、あるいは現場を持っているということが大事。
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社会で生産に携わる大人から学ぶ。仕事の魅力を知り、追求している大人に学んでこそ社会で生きていくための本当の力を身につけることができる。学校では絶対に出来ないことです。と同時に大人自身の仕事への向き合い方も大きく変わっていくことでしょう。
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ボランティアはダメです。お手伝いは不要です。もうひとつ気合が入りませんし、無責任になりがちですから。システム参加者はその利用度に応じた請求を国家にする。国家はそれを査定して参加者に払う。ということにします。
今までこれだけ無駄な学校制度を運営維持してきたんだから、校舎つくって、それぞれに体育館やプールつくって、先生に給料払ってきたんだから、そのぐらいのお金は十分にありますよ。
で、国家の査定の重要なポイントは、その参加者が学習システムの専門業ではないことを調査、認識するところだ。
教育の専門家こそがこれほどまでに幼い人々の学習意欲を阻害してきた元凶なのだという視点で厳しくチェックしなくてはいけません。つまりシステムは専門家してはつまりません。心ある大人のいわば余力でいいのね、余力がいいのさ。
つまり、世の中の学習システムの一員であるということで大人のほうも整ってくるであろうというヴィジョンさ。児童を預かっているのではなく、幼い興味のあるファンを集めているわけですから、それぞれの業界の未来も見えてくるっていう寸法だよね。成熟を促す学習システムね、いいでしょ?
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教育の専門家はいらない。実は教育に限らず、世の中の専門家は社会問題や事件が起きたときにしたり顔で解説したりしますが、問題の根本を考え社会を変えてきたことは一度たりともありません。無用の長物、いや問題を起こしている元凶だといえるでしょう。
学校制度を解体して新しい学習システムを作っていく。荒唐無稽?に感じる向きも多いかもしれません。しかし考えてみるとほんの150年前まで、日本では当たり前のように行われていた学習システムなのです。ごく自然に、皆が必要なときに必要なことを学べる社会に変えていくことは、無理やり学校制度をつくったときよりも簡単なことなのではないでしょうか。
そんなのは無理だ・・と感じるとしたら、それはやはり学校教育のおかげなのかもしれません。
投稿者 hoiku : 2017年07月06日 TweetList
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