| メイン |

2017年04月28日

なんのために学ぶのか?~学びの本質は共同体の実現にある。

新教育、自発的学習、仲間との学び合い・・・
従来の詰め込み教育に代わるこれからの教育についていろいろな事例を見てきましたが、そもそも私たちは何のために学ぶのか?

出世のためとかお金を稼ぐため、というのは昔の話で、今の子どもたちの多くは「自分のため」ではなく「人の役に立ちたい、社会の役に立ちたい」という思いを持っています。これはすごく真っ当な感覚だと思います。

今回はこうした学びの本質について考えてみました。

 にほんブログ村 子育てブログへ

「おせっかい教育論」 内田樹、平松邦夫、鷲田清一、釈徹宗
の書評より紹介します。
以下(https://blogs.yahoo.co.jp/warabe401/62769428.html)より引用。
————————————–
@(内田樹)教育には色んな機能があるんですが、基本は、子供たちを大人にして、自分たちが構築し運営している共同体あるいは自治体のフルメンバーとして、それを担い得るような公共性の高い市民を育てると言うことです。
学校教育が今歪んでしまったのは、教育活動を行うのは共同体の利益の為ではなく、教育を受ける個人がそこから受益するためのものだと勘違いが広まったからだと考えます。
学校教育を子供たちに授けることによって、最大の利益をうけるのは、共同体そのものなのです。共同体を支える公民的な意識を持った人間、公共の福利と私的利益の追求のバランスを考えて、必ずしもつねに私的利益の追求を優先しないようなタイプの大人を、社会のフルメンバーとして作っていくことは、共同体の存続にとって死活問題なのです。
これは実に多くの人が勘違いしていますね。
共同体の維持がいかに大切か。そしてその大切さを忘れている人がいかに多いか。
これはとっても重要で、正して行かないといけないことだと思います。

@(内田)日常的な価値観が一時停止したような空間、「タイム」がかけられる場というのは、共同体の中に不可欠な要素なのです。学校というのは本来そうゆう多様な機能を果たす場だった。
神社仏閣もそうです。境内にはいったら、世俗の価値観は停止する。
「一般ルールが停止する場所」は共同体の安全保障のために絶対に必要なのです。

昔の商店街はその機能果たしていたと思う。
バーチャルな世界ではだめなんだよなー。

@子供にとって教育と言うか、成長の一番の契機となるのは「謎」なんです。
子供自身が自分の知的な枠組みを壊してブレイクスルーを果たすためには、「なんでこの人は、こんなことをやっているんだろう」というミステリアスな大人が絶対に不可欠なのです。色んなタイプの謎めいた大人が、様々な怪しげなことをそこらじゅうでやってる、というのが教育環境としては一番いいと思うんですよね。しかし学校では一貫して文部省は教員たちの規格化・標準化を推し進めて来ました。

僕らの子供のころは、まだ謎めいた先生沢山いたと思う。
本当に謎めいていて、未だに謎(笑)、でもいまだに同級生とかには、語り
草となってる。
そこから沢山学んだと思うなー。

(中略)

@「まなび」というのは、知識の習得のことではない。人に何かを諭されることだ。口で、ではなく、その人のふるまいや佇まいによって。

@実在の、あるいは書物の中のひととの出会いをきっかけに、それまでよりも「もっと見晴らしの良い場所にでる」というのが「まなび」の意味である。
山登りと一緒ですね人生は。
もっともっと見晴らしのいいところ、周りの人の気持ちが手に取るようにわ
かるようになれるところに、自分を置きたいって強烈に願望したいね。

@子供は大人が口にする言葉をまっすぐに聞くのでもなければ、そのふりをただまねるのでもない。その姿、その佇まいを、後ろからしかと見ている。いきる上で本当に大事なことは、こうゆう姿、こうゆう佇まいを通じてこそ伝わっていく。背中を見ながら、何かを学ぶのではなく、(知識は自分で調べるしか方法がない)スタイルを学ぶのである。

@職住一致というポリシーで街を再構築することを本気で考えなければならない時代が来ていると思う。もちろんすぐにそれは不可能であろうから、さしあたっては、「学校」という場所を、様々な「大人」が地域の施設としてあたりまえのように使うと言うふうにもっと風通しのいいものにしたうえで、あるいはまた年齢別の厳格な学年構成というものを根本から見直したうえで、うまく活用するよりしかたない。学校は多分そのちょうどいいサイズである。

本当に公立学校って、時代のキーワードだね。
ここの改革はぜひ進めたいね。

@教師というのは、実は凄い打率が低く、一割も行かない。だから、出会いの確率を増やすためには、わけのわからない先生たちがずらっと並んでる方がいい。

なるほど。
お店で、本当にコアな常連さんをつかむ確率も、一割以下だよな。
でも、一割以下だからって、だから無駄だって色んな努力を止めたらいけな
いんだよね。
一割以下でも、ゼロにしてはいけない。

@昔は、子供がちょっとぐらい変なことをしたって、「また街のおっさん、おばちゃんが鍛えてくれるやろ」と任せられる部分があって、先生に全部こなかった。でも今は、地域にそうゆう力がない。「この街に産まれたら勝手に育つ」というのがないから、全部学校の方に責任がいってしまう。

地域力をどうあげるか?
他に負けない地域にしたい!その熱い思いを、地域全体に蔓延させたい。

@学校崩壊の前に家庭崩壊が起こってる。家庭がきちんと機能していれば、学校教育に問題が出るはずがない。

はい。

@人間って言うのは、自己利益を追求するだけじゃ限界を超えられない。「他人の為」という動機がないと、技術的な限界は超えられない。「日ノ丸を背負う」とか、「日本のサッカー文化を底上げする」とか、そうゆう共同体に対する幻想的な忠誠心がないと、自分自身の限界を超えるのは難しい。自己利益を優先すると、どれほど才能があっても、潜在能力はなかなか開花しないんです。爆発的にポテンシャルを発揮するには、「世の為、人の為」という「大義名分」が要るんです。

@人間って、「母港」がないといい仕事は出来ないだと思います。「金のため」なんかで人間は限界を超えられないんです。人間が自分の限界を超える、オーバーアチーブするには、もっと幻想的なものが必要なんです。それはたとえば、「私がやらなきゃ誰がやる」とか、「祖国の運命は私の双肩にかかっている。この負託に応えねば」といった類の余計な、まあ勘違いというか、そうゆう使命感がないと限界は超えられないのです。
—————————————-

共同体の一員として、集団を守り存続させていくためのフルメンバーになるべく人は学び続ける。多くの人が潜在的には感じていながら、言葉として発することがなかった視点ではないでしょうか。

大昔なら狩のしかたを学ぶのも、作物の育て方を学ぶのも、村の行事に携わるのも、共同体の生産を担い集団を維持していくためのもの。それなくしては私たちの生活基盤が失われてしまう、そんな切実かつ喫緊の課題だったわけです。

現代では狩も農作業も多くの人にとってなじみは薄いですが、学びの本質は変わっていません。集団を、社会を守っていくための学びなのです。

そしてその思いが「世のため人のため」、「祖国の運命は私の双肩にかかっている。この負託に応えねば」といった大きな「志」へと成長していくのではないでしょうか。

「共同体の実現」、そのための「志の形成」。学びの本質は私たちの存在基盤をつくるという、とても重要な課題に向きあうことなのだと思います。

 

投稿者 hoiku : 2017年04月28日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2017/04/5540.html/trackback

コメントしてください