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2016年05月27日

かつて「育児書」は父親のための家政書であった!?

世の中には「育児書」なるものがあふれかえっています。母乳かミルクか? 離乳食はいつから? 夜泣きはどうしたらおさまるの? 立ち歩きが遅いけど大丈夫?

初めての育児、教えてくれる人は身近にいない、でも情報はテレビにネットに氾濫していてどれを信じていいかわからない。不安を抱えて育児書探索に向かうのも無理はありません。そんなニーズに応えていろいろな「専門家」がいろいろな育児書をだしてくれるものだから、事態はますます混乱して・・・

どうしてこうなっちゃったんだろう?と考えていたのですが、そもそも育児書っていつからあるの?という疑問が湧いてきました。調べてみると意外なことが!

今回は育児書の歴史をたどりながら、私たちの「育児」を考えてみたいと思います。

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以下(http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00039/200906_no39/pdf/259.pdf)より引用します。
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かつて、育児書は西洋においても父親のための家政書であったが、産業社会のもとで子どもの教育を一手に任されるようになった主婦のための子育て書へと移っていったように、日本でも、江戸時代においては主として男性のよる男性のための書だった子育て書が、時代を居って女性のための書へと変貌していった。
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いきなり「育児書」は父親のためのものだった、ときました。

家父長制の時代、生産単位である家の運営責任を負っていたのは父親です。家業はもちろん、家族の人間関係や跡取りの育成も重要な課題。これら全てをひっくるめた「家政書」が「育児書」の始まりだったようです。

しかも内容は食べのもの与え方、健康管理、躾けの仕方と、今のお母さんたちの悩みに通じていることばかり。これらが全て父親の課題として指南されていたというのですから、イクメンといわれてその気になっている現代の父親はまだまだ甘い・・となりそうです。

でも、これも時代の流れの中で徐々に変化していきます。明治以降を見てみましょう。

以下(http://repo.lib.hosei.ac.jp/bitstream/10114/5638/1/50-2yokoyama.pdf)より引用します。
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明治維新後にまず目につくものは、翻訳の育児書群である。この間には、一八八八年にドイツ留学から東京帝国大学医科大学に戻った広田長が小児科教室を開き、同年に『児科必携』を編纂している。これは主としてドイツの小児科関連の医学書から取捨選択した、小児疾病治療のハンドブックであって育児書ではない。しかし、これ以降、今日に至るまで、非常に多くの育児書が東京(帝国)大学出身の小児科医によって書かれることになる、その始発点となった医学書であるといってさしつかえない。
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やはり西洋育児の導入。それも医学書をベースにした育児書が出発点だったようです。そして大正時代にかけて、政府は国策として育児のあり方を定め、国民に浸透させようとします。
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一九二一年の内務省編纂『児童の衛生』および二三年の内務省衛生局編『育児と衛生』を見いだすとすれば、この二十年間ほどを、国家による次世代形成掌握とその制度化の時期と呼べるかもしれない。特に前者は、その前年に内務省が国家の総力を挙げて保健衛生調査会を組織し、翌年の児童衛生展覧会の開催とともにその成果をまとめた大判のもので、育児書の「国家モデル」とでもいうべき様態のものである。言うまでもなくこれらの背景には、深刻な乳幼児の死亡率の高さがあり、これは、その抑制に傾けた国家総力の「成果」であり、生のポリティクスの近代的形態の成立であるとでの生と身体の国家ポリティクスの一環である。
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まさしくこれは「富国強兵」の一環。国力の基盤となる子供たちをいかに健全に育てるか?が国家の重要課題だったわけです。そのかいあってか大正・昭和と時代を下るにつれ「育児書」は大衆にも浸透していきます。

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この時期はまた、『主婦之友』をはじめとする大衆女性雑誌がこれを中心的に主題化し、新聞社が育児講演会を開催し、育児書の出版にも参入し、また全国的な健康優良児選びを行い(三○年)、さらにラジオ放送が『我子の為に』(二九年)と題したラジオ放送講座とそのテキストを出版した時期でもあった。朝日新聞社の『標準育児講座・全三巻」(四○年)や主婦の友社の『母の愛育全集・全五巻』(四一年)は、マス・メディアによるこうした流れの集大成である。これらに呼応して、素人の育児経験そのものがメディアを通じて語られたり、自治体によって経験談が募集されたりすることも起きており、この時期は、いわば育児(論)が大衆社会化された時期であるともいえよう。この一九一○年代から三○年代に至る「育児文化成立期」とでも呼びたい時期には、戦時と敗戦直後の時期を越えて一九六○年代に直結する諸要素がほとんど全て現れていることには注目すべきであろう。
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育児は国家的課題、そしてその担い手は主婦という風に変わってきています。

戦前まで家父長制は残り続けましたが、江戸時代のような生産単位ではなく、父親は仕事、母親は家庭というスタイルが増えてきたのだと思います。時代的にはまだ農業従事者が大半を占めており、育児書など読んだことのない人も多かったのではないかと思いますが、都市部ではすでに生産から切り離された「家庭」が登場してきていたのです。

ここまで見てきて気付いたことが1つ。

「育児書」は家政にはじまり、国政へと変転してきましたが、一貫してあるのは集団課題としての「育児どうする?」でした。
現在のようなお母さんの不安や悩みに答える、個人課題としての「育児書」ではなかったのですね。

では現代のような育児書はいつどのように生まれてきたのでしょうか?次回は、戦後の動きをたどりながら現代の「育児書」、これからの「育児書」について考えてみましょう。

 

投稿者 hoiku : 2016年05月27日 List   

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