これからの充足のカタチ(13)~医療におけるこれからの充足のカタチ~ |
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2013年06月27日
これからの充足のカタチ(14)~ピンピンコロリ:寿命まで元気で現役に生きるということ~
こんにちは^^
前回の記事では、生きることの喜びや医師に対する本源的な感謝の気持ちが人々の力に繋がってゆく医療現場の「これからの充足のカタチ」を紹介しました。
お金のかかる高度な技術や設備以上に、そういった人と人との関係の中から生まれる充足が求められているのですね
同様に、日本は世界に名だたる長寿国といわれていますが、”とにかく長く生きること”が求められている時代ではなくなっているようです。
では、命の長さ以上に求められている「これからの充足のカタチ」とは何か?
人々の生き様から探ってゆくことにします
続きもよろしくお願いします
『できるだけ元気に、長く生きたい』
誰もが考えることです。
では、どんな状態になっても長生きしたいですか?と聞かれると、
それはちょっと違うかもしれません。
また、「最期は病院へ・・・」というのが当たり前になったのはごく最近のことのようです
■「老衰」という選択~「看取り」の発想がない医療現場~
「老衰死」藤枝市立総合病院 臨床検査科長 金丸 仁
Doctor’s Opinion Doctor’s Magazine Feb 2012より癌の治療に関する講演をしたときに、こんな質問をしたことがあります。
「長生きしたい人」…大部分の人が手を挙げました。「ではどんな状態になっても長生きしたい人」…手を挙げる人はほとんどいません。そこで次の質問です。
「人間は必ず死にます。ではどんな病気で死にたいですか。まず、癌で死にたい人」…ほとんど手が挙がりません。「それでは何の病気で死にたいですか」…誰も答えられません。
「では病気がいやならば、自殺、他殺、それとも不慮の事故死なんかがいいのでしょうか」…こうなるとみんなの頭は混乱してきます。
普段からこのようなことを考えている人はまずいないということですが、この受け答えから考えられるのは、死ぬのはいやだが、どんなふうになっても生きているなどとは望まない。そして死ぬとしたら病気もいやだし、事故などで死ぬのもいやだということです。そんな虫のいい話があるのでしょうか。
実は老衰という死に方があるのです。老衰死を提示すれば、おそらくほぼすべての人が手を挙げたことでしょう。
ところが日本の今の医療は、この老衰で亡くなることをさせないようにしているとしか思えません。それは医療者だけでなく日本人全体の責任であると思います。私は外科医ですが、毎週1回内科も含めた救急の外来も受け持っています。ここには本来の急患だけでなく、介護施設などから、最近食事が食べられなくなったという寝たきりの老人が救急車で運ばれてくることがよくあります。年齢が90歳を超えていたりすればそれは老衰と判断すればいいのでしょうが、食べられないと死んでしまうという理由でつれてこられるのです。担当の医師も心配だから病院に行ってみてもらいなさいと言ってしまうのです。そこには看取りの発想がありません。その結果、こういう老人に胃瘻を作ってしまうことになるのです。
寝たきりで自分の意思表示もできない老人に胃瘻を作ることは私には理解できません。胃瘻から流動食を流すことはかえって誤嚥性肺炎の機会を増加させ、せっかく老衰という理想の形になるはずのところが、肺炎をはじめとした病気による死亡を作り出すことになるのです。
「『平穏死』のすすめ」という本を書かれた蘆花ホームの石飛幸三先生は、胃瘻の弊害を家族のみならず職員にも説明し、胃瘻を作らないで、介護施設の中で看取るということを実践しておられます。人生の終末期についてよく考えられた結果ですが、多くの病院の医師は、胃瘻に限らず医療を施すことの無益さについて家族に説明できる信念もないし、できることはなんでもしてくださいと言われればそうするほうが面倒もないという消極的理由で、無益(と私は考える)な医療が行えるのです。
このような患者さんは内科にお願いするのが普通ですが、自分が救急で当たったときは、主治医として外科病棟に入院させることがあります。救急外来では十分な話ができないので、入院してゆっくりと家族を説得するためです。大切なのは無駄な栄養補給ではなく、最期をみんなで看取ってあげることだということを。死を認めるのは医療の敗北ではありません。命の長さだけが大切なのではないことは、助けられる命は助ける技術をもっている自信があれば、説得可能でしょう。
(中略)
癌については、緩和医療が普及し、東海大学事件依頼、法的にもある程度の指針はありますが、老人の延命治療中止にはまったくコンセンサスがありません。食べられなくなればそれが人生の終わりというコンセンサスの国もあると聞きます。日本でも昔は家で家族の死を看取ることができましたが、今は、病院に入れて何かの病気で亡くならせるしかできなくなってしまったのです。
病気で亡くなることがいつの間にか当たり前になっていることに気づき、ハッとさせられます。
また、何が何でも延命しようとする不自然さと、自然の摂理を全うする「老衰」の素晴らしさを改めて認識できます。
では、私たちが本当に求める生き様とは、どういったカタチになるのでしょうか?
■ピンピンコロリかネンネンコロリ (リンクより)
長野県が長寿No.1の県になった。長野県はピンピンコロリが多い県だそうです。日本ではネンネンコロリが多いので長野県の健康、ピンピンコロリの秘密が知りたい。
ちなみに、ピンピンコロリはPPK、ネンネンコロリはNNKなんかに省略されたりもしますが、ピンピンコロリは読んで字のごとく、ピンピンしながらコロリと死ぬこと。つまり、寿命まで元気で現役に生きるということ。
ネンネンコロリもそのままの意味で、寝たきりになりながら寿命を全うするという意味。生涯現役でいるために、最近ではロコモ対策(歩行や日常生活に支障をきたさないための対策)なんてことも言われています。
ピンピンコロリ、そうありたいなと思う。
理想は生涯現役でピンピンコロリ。
「死ぬまで働き続ける」というと苦しいイメージを持つ方もおられると想いますが、
人に必要とされて、働くこと・働けることは、実は素晴らしい生き様ではないでしょうか。
なかには、100歳を過ぎても、みんなから必要とされて現役で働き続ける方もいます。
■100歳で、毎日通勤している現役のサラリーマンがいる。~縄文文化に通じる利他の思想 (リンクより)
100歳で、毎日通勤している現役のサラリーマンがいる。
これを聞いたとき、私は目を疑った。100歳で現役?どうしてそこまでして働くの?という疑問が頭に浮かんだ。しかも、毎朝、通勤で辻堂から神田まで、片道1時間ほどを電車で通っているという。100歳のおじいさんが満員電車に?
さらに昼ごはんにはマクドナルドでハンバーガーを食べることもよくあるという。
100歳のおじいさんがマックを食べる?シンジラレナイ。つい片言になってしまうくらい衝撃を受け、それっていったいどんな人?と、興味を覚えずにはいられなかった。
そのおじいさんの名前は福井福太郎という。この本の著者である。福太郎さんの生まれは1912年(明治45年)5月。あと2か月生まれるのが遅ければ、大正になるというタイミングである。その後、2度の世界大戦に、関東大震災、金融恐慌、世界恐慌といったことをリアルに体験している。
そんな福太郎さんがサラリーマンになったのは49歳のときである。現代の感覚からすると遅い。大学を卒業したあとに、慶応義塾大学で助手を努め、第2次大戦で戦地に赴き、復員してからは、父親が起こした毛皮の会社で、セールスとして働いた。その後、大学の助手を一緒にしていた人が、望月証券の社長となり、その人に請われて49歳で望月証券に入ったのだ。
証券会社を退職したあとは、東京宝商会という福太郎さんを含め社員3人の小さな会社で働いている。いまでも現役で働いているというから驚きだ。その期間、なんと、51年!半世紀以上!ってすごすぎて、もうなにがなんだかよくわからない。
なぜそこまでして働き続けるのだろう?裕福な家庭で育ち、証券会社で定年まで働き、お金には困っていないはずである。福太郎さんはけっしてお金のために働いているのではないのだ。ましてや暇つぶしなどでもない。
ではなぜか?その理由の一つは会社や同僚から「必要とされているから」だ。会社を辞めたいと申し出た96歳のときに、福太郎さんにはずっといてほしいと会社のオーナーから引き止められたというのだ。それ以来、仕事を続けている。
福太郎さんは利他の精神を大事にしている。大学時代に福太郎さんが学んだほぼ無名の経済学者シモンド・ド・シスモンディから影響を受けたそうだ。利他の精神があったから100歳になっても会社から必要とされるのだ。
また福太郎さんは、元気な間は、人間はずっと働かなくちゃいけないと思っている。動物は死ぬまで自分で食料を調達しなくてはいけない。人間も動物の一種なんだから、生きるために、死ぬまで働かなくちゃいけないという考えを持っているのだ。
100歳を過ぎても、必要とされているから現役で働き続ける。なんて素敵で幸せな人生なのだろう。高齢化社会が進むなか、福太郎さんのように、人に必要とされて、働く人が増えれば、世の中はきっといまよりちょっといい世界に変わるはずだ。
最後は福井さんの言葉でレビューを締めたいと思う。
“生きてる間は人間、一生懸命、生きなきゃいけないんです。”
生きよ!そして働け!
100歳のおじいさんの働く上でのモットーは、「利他の精神(周りの人に利があるように行動する)」です。
その結果周りの人から「必要とされる人」になっているという事です。
考えてみれば当然です。
おじいさんは、周りの人が利する様に働いているのですから、周りの人にとっては、おじいさんは必要とされる人であり、おじいさんに期待する関係になっています。
周りの人たちとの「期待応望の関係」。
このような関係を築いてゆく心のあり様が、ピンピンコロリ~寿命まで元気で現役に生きること~も実現してゆく”これからの充足のカタチ“ではないでしょうか☆+゜
投稿者 chiue* : 2013年06月27日 TweetList
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