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2011年07月28日

社会を変える『トモダチづくり』~社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流~

前回『社会収束1 評価共認が生み出す同類圧力』では、人々の期待(=欠乏)に応えるものは、評価競争→同類圧力が生起し続けることが分かりました。

今回は、それに続く同類圧力から社会収束にいたる過程を追ってみようと思います。

具体的には、’70年の貧困の消滅から40年、貧困という私権圧力を乗り超えた事で生まれた、新たな圧力=同類圧力により、新しい外向欠乏や社会収束の潮流が発生してきています。

それは、今時の若者の つながり欠乏が、昔の合コンのような邪心にまみれた物と違っている事に現れています。私権圧力から同類圧力へ圧力の転換は、『トモダチづくり』の意識をどのように変えているのでしょうか?

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社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流より引用

同類圧力とは、期待⇔応望の圧力を母胎として生起する評価圧力(評価共認⇔評価競争の圧力)、および(その評価共認によって収束→固定された)制度・規範・観念の固定圧力であり、全ては共認圧力である。
この圧力を受けて、
〇外識機能は、個人や集団を超えた社会圧力(上記の共認圧力)を把握しようとする認識欠乏(注:これを脱集団という意味で、外向欠乏と呼ぶ)に収束する。
注:この外識機能の外向基調(外向欠乏・外向収束)は、内識機能の充足基調(充足欠乏・充足収束)と並ぶものである。
注:マスコミもネットも、社会探索も事実収集も、実現論も、全てこの外向欠乏が生み出したものである。
〇内識機能は、個人や集団を超えたより広い対象に向かい、多くの人とのつながり(広がり)欠乏に収束する。
注:これは外識機能の外向基調が生み出した共認(期・応)欠乏である。

かつて、人類の同類闘争(とそれが生み出した集団を超えた社会圧力)は、掠奪闘争(その原基は縄張り闘争)として顕現し、それが私権時代の幕開けとなった。それに対して、現在生み出されつつあるのは、縄張り闘争ではなく、つながり(共認)を紐帯とした本源的な社会収束であり、これは人類史的に全く新しい潜在欠乏の発現である。

これまでこの本源的な外向欠乏は、私権引力やその縄張り集団によって打ち消されor閉ざされてきた。しかし、’70年以降の私権の衰弱につれて私権引力やその縄張り集団を超えて、人々が個々につながってゆくという形で、本源的な外向欠乏が徐々に顕在化してきた。
そして、遂に’02年、私権統合の崩壊によって外向欠乏⇒社会収束の潮流が一気に顕在化してきた。(但し、まだ人(つながり)収束に留まっており、社会そのものに収束していないという意味では半顕在化の段階にある。)

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私権圧力が強い時代にも外識機能・内識機能は働いており、私権的な外向収束は働いていましたが、個々の利益追求という縄張り闘争上の社会収束であったようです。

しかし、’02年以降、私権統合の崩壊によって、つながり(共認)を紐帯とした本源的社会収束が一気に顕在してきました。

それは、人つながり(合コン)等も「モノにする」というところから、「みんなで楽しむ」というとに充足の置き所の変化に現れています。

みんながより充足できる課題や集団を探索・追求し始めているのが現代の「トモダチづくり」なのです。

このような、若者の意識がどのように生まれてきたのか?という点を、今後扱う「新しい潮流」シリーズで振り返ってみたいと思います。

投稿者 shijimi : 2011年07月28日 List   

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