社会を変える『トモダチづくり』(1)~社会収束1 評価共認が生み出す同類圧力~ |
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2011年07月25日
勉強だけができる子にしたくない!【6】:民主主義は人々の自我を肥大化させ、無能化するために仕組まれた
フランス革命を主題とした絵画「民衆を導く自由の女神」
フランス革命における「民」とは、決して一般大衆ではなく、「資本階級」のことであった。
画像はこちらからお借りしました。
「勉強だけができる子にしたくない!」シリーズの6回目です。
これまでの記事は・・・
【0】:プロローグ~試験制度は子供達を無能にする
【1】:こんなにも進んでいる試験エリートの無能化
【2】:地震を契機に人々の意識はどう変わるか?
【3】:学者がウソをつく~専門家では社会の役に立たない
【4】:特権階級の自家中毒~その原因は仲間からの評価非充足か!
【5】:旧観念への固執による、みんなとの意識のズレ
です。
ここ2回は、“なんで「試験エリート」は役に立たないのか?”について考えてきました。
前々回は、明治以来続く試験制度≒官僚制度の重大な弊害として、 ①既存の“制度”の枠組みを超えて思考できなくなる、②特権の維持と行使だけが目的となる(国や国民のことなどどうでも良い)、③支配の快楽に酔いしれ自家中毒に陥る・・・が抽出されました。
また、前回は試験エリートである特権階級が有効な答えが出せない・・・どころか社会を益々閉塞させているのは、“現実を全く対象化できない架空観念”である近代思想=旧観念に染まっているからであることや、これら、自由、平等、個人、人権などの旧観念は、大衆レベルでは形骸化し、無意味化しつつあるのに、特権階級の世界では、試験制度などの諸制度によって増幅され、大衆との意識の断層がどんどん開いていっていることが明らかになりました。
<参考>
現代の神官=社会統合階級の欺瞞
近代思想は宗教と同根
しかし、この旧観念の問題は、特権階級だけの問題ではありません。実は我々一般大衆も、思考や行動において知らず知らずのうちに今も大きくその影響を受けています・・・その中核は「民主主義」 です。
民主主義とは?(Wikipedia より)
民主主義(みんしゅしゅぎ、デモクラシー、英語: democracy)は、国家や集団の権力者が構成員の全員であり、その意思決定は構成員の合意により行う思想・運動・体制である。
デモクラシー(democracy)の語源は、古代ギリシアの、「デモクラティア」で、「人民・民衆」の意味の「デモス」と、「権力・支配」の意味の「クラティア」を組み合わせたもので、「民衆支配」、「人民権力」、「国民主権」などの意味である。
民主主義といえばフランス革命が思い浮かびますが、国王が独占していた権力を奪取し、国民一人一人が権力を有し、意思決定は全員合意によって行なわれる・・・ということになっています。
しかし・・・“権力”とか“合意”と言われても、今一ピンと来ないですね。
そこで、今回は、「民主主義は人々の自我を肥大化させ、無能化するために仕組まれた」と題し、一見衰退しつつあるように見える旧観念=近代思想の中で、根深く我々の意識を支配し続けている「民主主義」の欺瞞性・危険性に焦点を当ててみたいと思います。
因みに、若い世代の中では既に「個人主義」という言葉を胡散臭く感じる・・・どころか、聞いたこともないという層が登場しつつありますが、「民主主義」に対し違和感を覚える人はほとんど居ないと思われます。あなたはどうですか?
いつもありがとうございます
2010年の世界の民主主義指数
(緑系が民主国家で、濃いほど民主化度が高い。赤系がその他独裁政治体制等で、濃いほど民主化度低い。民主国家とは概ね、金貸しの生息地か、日本のようにそれに従属する国家であることが分かる)
画像はこちらからお借りしました。
「るいネット」より引用します。
民主主義の要を成す議会が、左右いずれにせよ金融勢力の操り人形の演舞場にすぎず、これまでやってきたことが、金貸しの暴走にお墨付きを与えることだけだったとすれば、いったい民主主義とは何だったのか?
私はこれまでも、新理論を構築するためには、近代思想を全的に否定する必要があると考えてきた。そして、「自由」「個人」「人権」etcの架空観念を、近代思想の要と見てきた。
しかし、これまで民主主義については(その怪しさを重々知りつつも)、全的には否定し切れないでいたが、近代思想の本丸は実はこの「民主主義」にあったのではなかろうか。
実際、庶民レベルでは「個人」や「人権」という言葉はあまり使われなくなったが、「民主主義」だけは根強く支持されているし、今もアメリカが他国を侵略する口実は、「民主主義(ではない国は破壊する)」である。人々が民主主義を肯定視する理由は、その「民が主」という主張が、いかにも共認原理に立脚しているもののように感じられるからである。私が全的に否定し切れなかった理由も、そこにある。
“個人”が“自由”に自らの“人権(権利)”を主張すれば、仲間関係も集団も社会もバラバラになることに、誰もが薄々感づいているからこそ、これらの言葉に胡散臭さを感じるが、「民が主」という言葉には、「“みんな”が社会の主人公」という共認原理的なニュアンスが込められており、マイナス感情や違和感は通常生じない・・・
「すべての人には同じ価値があります。子どもも大人と同じ価値を持っています。
すべての人には社会に参画し社会を良くしていく権利があります。すべての人は意見を表明する権利を常に持っています。望むことを実現するためには、同じ意見の人を集めなければなりません。」(10歳からの民主主義レッスンより)画像はこちらからお借りしました。
だが、「民主主義」は、本当に共認原理に立脚しているのだろうか?
それを、人類本来の共同体の共認原理と突き合わせてみることによって、明らかにしていこう。まず第一に、共同体では、自然の摂理に学び、部族の歴史に学び、先人の経験に学ぶことが、根本規範となっている。
従って第二に、共同体では、成員の誰もが自分たちの置かれている状況と課題を熟知している。
従ってまた第三に、何かを決めるのは、全員合意が原則であり、緊急時etcの長老一任も、この全員合意の延長上にある。それに対して「民主主義」は、根本的かつ致命的な欠陥を孕んでいる。それは、成員の大多数が、ほとんど何も学ばず、何も知らないという点である。これでは共認原理はまともに作動しない。むしろ、民主主義は、そもそも始めから共認原理を踏み外してしまっている。
例えば法律については、それが日常のあらゆる生活を規制しているものであるにもかかわらず、(専門家以外)誰も知らないし、社会がおかれている状況についても、大半の成員がほとんど知らない。
とりわけ、市民運動を中心的に担ってきたのは若者であったが、学びの途上にあり殆ど何も知らない未熟者が、いったいどうして何かを主張し、評価を下すことが出来るのか、何かおかしいと感じないだろうか?
何も知らずとも、主張し判断できる主体は、一つしかない。それは、自我・私権の主体である。自我・私権の主体なら、ほとんど学ばず、ほとんど知らなくても、己に都合のいい理屈を並べたてることは出来る。子どもの言い訳や屁理屈と同じである。
また、民主主義は、自我・私権に立脚しているので全員合意は望めない。だから、多数決で決着をつけるしかなくなるが、この多数決もまた、民主主義が自我・私権に立脚したものであることの証拠である。事実、民主主義は、何よりも「発言権」や「評価権」を優先させ、『まず学ぶ』という人類の根本規範を見事に捨象している。だから、「民主主義は正しい」と信じ込まされた人々は、『まず学ぶ』という根本規範を踏みにじり、身勝手な要求を掲げて恥じない人間と化す。
つまり、本来の共認原理ならば・・・
自分達の集団や社会を作る(当事者意識)
↓↓
成員全員が納得する結論・方針に収束(≠多数決)
↓↓
成員全員が、自分達の置かれた状況や課題を熟知
↓↓
謙虚に『学ぶ』ことが根本規範
ところが、一見共認原理的な民主主義においては、肝心な事実はマスコミや学者によって捻じ曲げられ、あるいは隠蔽されて知る由も無く、その上で「発言権」や「評価権」だけが保障されている。
これに“個人”“自由”“人権”なども加わった結果、自我私権の主体と化した個人は、唯一己の損得勘定に基づき発言・主張し、評価を下すようになる。
例えば、現在ネット界(最近はマスコミも)では、地震・津波・原発事故を契機に盛り上がる当事者意識もあり、「原発反対」が叫ばれつつあるが、これも、否定するだけで原因分析や突破方針の提案に思考が向かわない以上、それは単なる否定発、自我発の主張に留まり、まんまと「近代思想」とりわけ「民主主義」に絡めとられてしまう。
また、こうした“発信欠乏”こそが「民主主義」の染脳によるものであり、「謙虚な学び」を妨げていることを、冷静に考えてみる必要があると思います。
こうして民主主義は、『学び』をないがしろにすることによって、どんどん自我を暴走させると共に、どんどん人々を無能化させてきた。
要するに、金融勢力は、「民主主義」を人々に吹き込むことによって、人々の自我をとことん肥大化させると共に、とことん無能化した上で、自分たちの好きなように染脳してきたわけである。かくして、民主主義に導かれて暴走してきた近代社会は、ついに経済破綻と地球破壊のドロ沼に沈み、そこから這い上がれなくなってしまった。いまや、人類は滅亡の一歩手前にある。
それは、民主主義が自我の暴走装置であり、とりわけ金貸しの暴走を正当化する悪魔の思想であることの、疑問の余地のない証であり、もはや、この期におよんで民主主義を正当化する一切の言い訳は通用しない。以上で明らかなように、民主主義は、決して共認原理に立脚しているのではない。それどころか、民主主義は、共認原理を破壊する自我原理に立脚している。それが、民主主義の正体である。
(そもそも、「民が主」というのも自我発の言葉であって、共同体の人々が「自分たちが主」などと言うわけがない)人々の意識の変革は、民主主義の正体を見抜くことから始まる。
すなわち、制度としての民主主義は自我の暴走装置であり、思想としての民主主義は悪魔の思想であることを見抜いて、民主主義を全的に否定すること。
全てはそこから始まる。そうして初めて、人々は人類本来の共認原理に立ち戻ることが出来るようになる。
事実を隠蔽した上で「発言権」「評価権」のみ与える
↓
客観的判断軸が存在しないので、自我私権に基づく損得感情で「発言」「評価」
↓
『学ぶ』必要がない
↓
自我が肥大化する(社会の傍観者)
無能化する
今や、「民主主義」は、試験エリートである特権階級達だけでなく、我々の頭の中にも深く浸透しており、知らず知らずにうちに自我が肥大化し、思考力を奪われ無能化していってしまっています。
むしろ、「民主主義」は、人々の自我を肥大化させ、社会への真の関心を奪い、無能化するために仕組まれたことは間違いないと思います。
そして、このままでは経済破綻、地球破壊などの逆境を突破することはできないでしょう。
■どうしたら良いか?
今必要なことは、自我に基づく主張ではなく、誰もが納得いく“事実”の追求であり、この今や誰もが求め、期待する“事実”の発信であれば、みんなで共有し、充足することができます。
そして、そのためには、まず(主張する前に)『謙虚に学ぶ』根本規範を改めて構築する必要があります。
■何を学べば良いのか?=自分達で社会を作っていくために必要な認識とは何か?
それは、(決して金貸し達に歪められた、近代思想に毒された受験勉強ではなく)社会構造、歴史構造、あるいは自然の摂理、先人の知恵などの事実群であり、直面する経済破綻や地球破壊への突破口を見出すために学ぶべきことは無限にあります。
また、日常的には謙虚に“周りに学ぶ”ことを根本規範としていく必要があります。
(「自分らしさ」や「オリジナリティ」こそ、民主主義などの近代思想が生み出したまやかしです。)
これら、なにを学ぶべきか?については、シリーズ後半にて再度考えてみたいと思います。
◎参考に是非お読みください。
民主主義とは何なのか-1-われとわれとが戦う病、理性を使わせないシステム
民主主義とは何なのか-2-虚心坦懐に森羅万象の声を聞くとき、事理は自づからに通う
投稿者 kota : 2011年07月25日 TweetList
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