【男の居場所は何処にある?】~充足→安定・保守収束に応える実現力 |
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2011年07月06日
勉強だけができる子にしたくない!【3】:学者がウソをつく~自分のための学問では役に立たない
勉強だけができる子にしたくない!シリーズの4回目です。
これまでは、
勉強だけができる子にしたくない!【0】:プロローグ~試験制度は子供達を無能にする
勉強だけができる子にしたくない!【1】:こんなにも進んでいる試験エリートの無能化
勉強だけができる子にしたくない!【2】:地震を契機に人々の意識はどう変わるか?
前回は高学歴(特に東大)の人間の無能さに焦点を当てました。
学歴を得るために、入試問題のためだけに時間を費やして、その他雑事へはなるべく興味を示さないように仕向けていく。
この試験への適正と他の事への無関心さは、今後の世の中に必要とされる「答えを出す能力」には決定的な致命傷を与えます。
試験勉強しか出来ない人間に新しい社会を作ることは到底無理で、何に対しても興味関心を寄せ僅かなことにも洞察を試みる事が出来なくなってしまうのです。
貧困が存在していた時代には、エリートは社会の期待(豊かさ期待)を背負って大学を卒業してから社会のリーダーとなるための使命感を持っていたように思います。(∴社会に対して無関心にはなれない)
貧困が消滅し、大学進学率が50%を上回る現代では、学歴は就職のため、自分の生活のためという意味合いが強くなっています。
そう考えると一部の高学歴の人間だけではなく、時代とともに社会全体の勉強・学問に対する価値観の変化が考える力・答えを出す能力に悪影響を与えていると言えるのではないでしょうか。(但し、その価値観を都合の良いように先導しているのは、官僚・学者・マスコミの人達ですが)
勉強・学問に対する考え方の変質が、世の中や人々の能力にどのように影響を与えているか、興味深い記事があったので紹介します。
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るいネット
あれは、そうだったのか! 学者と報道の謎が解けるより
■武田邦彦さんのHPの記事の紹介です。
現代の学問、学者、大学、そしてマスコミの問題点が端的に表現されていると思います。●武田邦彦さんのHPより
「あれは、そうだったのか! 学者と報道の謎が解ける」より引用。~引用開始~
あれは、そうだったのか! 学者と報道の謎が解けるあるシンポジウムの後、私は次のような質問を受けた。
「武田先生は、なぜ、リサイクルとか温暖化で、そんなに国と違う意見を言われるのですか? 何が目的ですか?」質問をした方は学識、人格、人柄、すべて優れた人で、だからこそこのような直接的なご質問をしていただいたのだろう。
私はこの質問をいただいて、瞬時にこれまで長年、疑問に思っていたことが氷解した。それは、私が持ち続けていた逆の質問、
「なぜ、皆さん(主に学者と報道)は環境問題で国の方針に疑問を抱かないのですか?」というものだった。長年、不思議に思っていたことがあった。それは私も、そして私の言動を見ている人も、私と意見を異にする人も、ともにお互いに理解できなかったことだった。
・・・・・・・・・
20世紀のはじめのころ、マックス・ウェーバーという偉大な社会学者が「職業としての学問」という書を著している。私はそれを恩師から紹介され、むさぼるように読んだ。
そこには、「人間の興味としての学問」と「職業としての学問」が対比されていた。
「興味として学問」をしていた時代には、自然を観測し、解き明かし、時にはそこでわかった原理を応用して機械を作る・・・ということが行われてきた。観測は正確に行われ、議論は真摯に進み、そして発明された機械はジワジワとその価値を認められるようになった。
ところが「職業としての学問」が誕生して以来、都合のよいデータが公表され、職とお金に関係のない議論は無視され、計画的に機械が考案される・・・それは、学問がその身をお金に売り渡したことだ。
その弊害は至る所に現れる。マックス・ウェーバーはその一場面を大学の中に求めているが、現代の大学でもまったくそのまま当てはまることだ・・・腐敗した大学。
「学問の職業化」がもたらしたことは、またの機会に十分なスペースをとって考えてみたいと思うが、ここでは、「学問の職業化」と「報道の職業化」が「環境問題」に何をもたらしたかに絞って議論を進めたい。
「職業化」とは、「お金化」と言ってもよく、学問を賃金や名誉に置き換え、学問的興味より、賃金が上がるとか、名誉が得られるということを上位に置く考え方を言う。
マックス・ウェーバーは「学問の手段化」とも解釈している。学問はそれ自体が本来の目的を持っていたが、それがお金を稼いだり、名誉を得たりする手段になったことを意味している。
「学問に夢中になっていたらノーベル賞をもらった」というのと、「ノーベル賞をとるために頑張った」というのとの差である。
・・・・・・・・・
私が環境問題に疑問を持ち、学会や社会にそれを問うているのは「学問的興味」であって「別の目的」はない。
たとえば「温暖化すると南極の氷は融けるか?」ということを物理的に考えると「増える」となるのに、なぜ「融ける」と言っているのか?政府やNHKには多くの学者が参加しているのに、なぜそのようなことが言われているのか?というのは「真理」を追求する学者にとっては当然の疑問で、「何の目的で質問しているのか?」などと聞いてもらっても、どう答えて良いかわからない。
もし、「私の興味で聞いています」と言うと、「そんな暇はない」という返事が来そうである。
また「温暖化しても日本の環境は悪くならない」という結論に達すると、「温暖化が脅威だ」という人の論文を読んだりしたくなるし、疑問もぶつけたくなる。
でも、現在の日本では「温暖化が脅威」という人たちの集まりに言って質問してもほとんど答えてくれない。あるときに「2℃上がると大変だ」と偉い人が講演で言われるので、「今の地球の気温は15℃ですが、日本にとって何℃が最適ですか?」
と質問したら、返事そのものをされなかった。座長も講演した先生も、私の質問は完全に無視した。「2℃上がって大変だと言っているのだ。つまらない質問をするな」という感じだった。
NHKの度重なる誤報も「報道のお金化」によるものだろう。「正確な報道をいかに早く視聴者に伝えるか」という報道に興味があるのではなく、視聴率とか国会議員の印象などを通じて「自分たちの組織とお金を守るためには」という考え方だ。
何となく絶望感もある。これほど世の中が世知辛くなり、「目的がなければやらない」ということになると、話をしていても「目的」がないなら聞いても意味がない。
「儲かることだけ聞きたい」、「儲かるような方向なら合意する」という時代なのだろう。(平成22年6月29日 執筆)武田邦彦
~引用終わり~
■その他:参考投稿
るいネット 福島の原子力発電所の危機は官僚政治による人災である
るいネット 4/17なんでや劇場(9) なんで、こんなことになってしまったのか?⇒科学者たちの信じられないアホさ加減
本来、学問の原点である「学ぶ」「習う」は廻りの人々や社会の期待・外圧を受け、観察して自然と身につける(同化する)ものでした。参考:ヘヤーインディアンの社会に学ぶ「同化教育」
従って、ここで言う「人間の興味としての学問」も、個々人の勝手な興味本位の事ではなく、集団・社会の期待・外圧を受けて生じる「興味」と解釈する事が出来ます。
今や「人間の興味としての学問」は、「職業としての学問」⇒「学問の職業化」≒「お金化」となってしまい、その変化は「社会・他人に対して無関心」を同時に生起していきます。
学問が社会課題から個人課題に置き換われば、目的が「職業化」、「お金化」していくのは必然とも言えるでしょう。
しかし、一方で貧困が消滅して以降、バブル崩壊のあたりから、一流企業も安泰ではない⇒そもそもお金が第一価値なのか?という疑問がどんどん膨らむにつれ、勉強・学問のあり方も新しい潮流が起こってきています。
地位・お金(私権)獲得に変わる新しい目標が見出すために、外向きに意識を転換し、社会に目を向け始めた人達が、一緒に教え合い・学び合う場を求める潮流です。
例えば、どこでも「私塾」の時代
●「なんでや露店」
今や誰もが、この社会は何かおかしいと感じ、社会の事を真剣に考える場や仲間を求めています。そのような共認形成の場の一つが、道行く人と「なんでだろう?」という問いを通して事実を追求し、答えを出す『なんでや露店』です。
●シブヤ大学
「シブヤ大学」は、生涯教育プログラムとして始動したプロジェクトである。
教える人は生涯教える人、教わる人は生涯教わる人。役割の決まりきった教育ではなく、
「教える」と「教わる」を自由に行き来できる教育。考えてもみてください。教えるとなったら、ものすごく勉強してしまうだろうし、教えることで、はじめて教わることもきっと沢山あるはずです。
●カタリバ
高校生に大学生と話す機会を提供するNPO団体です。
地域共同体が消滅しつつある昨今、タテ(ex.先生と生徒)やヨコ(ex.友人)というつながりはありますが、ナナメ(ex.近所のお兄さん)の関係はなかなかありません。
そのため高校生がモヤモヤをためてしまい、学習意欲の低下、コミュニケーションの不具合、のちにフリーター、ニートになるなどの問題が発生しています。
よって、そのナナメの関係を構築しようとカタリバはスタートしました
●その他
なんでや劇場
ネットサロン
弁護士からコンサル、一流営業マンまで続々参加。高いスキルを“無償で提供”する「プロボノ」な人たち
このような新しい意識の変化・潮流が、実は以前から無能であった官僚・学者・マスコミたちの無能ぶりをよりいっそう顕在化させ、「なんかおかしい」「報道は本当なのだろうか?」等の疑問が増大とともに事実追究の気運の高まりを生み出していると感じます。
投稿者 ginyu : 2011年07月06日 TweetList
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