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2011年05月18日

『新たな時代の教育制度の提言に向けてシリーズ3~事実収束⇒観念収束という潮流に向けて教育制度も考える必要がある!!~

こんにちは 😀
「新たな時代の教育制度の提言3」シリーズもいよいよ終盤です

>公教育は、そういう意味では、指導者に従わせるための「調教」そのもので、キリスト教から派生した近代思想によって、「羊は羊として生きること」と「支配」を変ることのない現実として、頭の中に「実現されることのない理想(夢)」を想い描かせるためのものだったのです。

そして、群れの中では、まとまって歯向かってこないように、或いは、社会全体のことに目が向かわないように、「個人主義」を教え、「自由」や「人権」など「微妙な対立構造」を仕組み、仲間や集団ではなく「群集」として育て挙げてきたのです。

しかし、現在、金貸しの目論見も、ここ日本において崩れ去ろうとしています。

『新たな時代の教育制度の提言に向けてシリーズ3~公教育の本質は「遊牧⇒交易部族出自民族」によって培われた【調教】にある!~

この金貸し支配を崩す、実現基盤は何か?どういう方向で検討していけばよいのか?の軸となる方針を扱っていきます

その前に
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◆まず、現時点での意識潮流の変化はどうなっているのでしょうか?

『課題収束を社会空間に広げていくきっかけも「充足」である。』より

70年代貧困の消滅から90年代の私権崩壊が人々の収束不全を引き起こし、本能を直撃、20年の蓄積を経てまず収束したのが秩序収束である。そこでは若者に代表されるように共認収束を経てまずは人=仲間収束した。
その後、02年以降私権崩壊が決定的になると、仲間収束だけでは納まらず、課題収束を引き起こす。遊びどころではないという状況から仕事や勉強という課題に向かった。しかしそこでの課題収束とは不安発ではなく「役に立ちたい」「喜んでもらいたい」「評価が欲しい」といった充足発である。この充足発の課題収束はしばらく続き、現在の充足基調を生み出し、なんであれ充足したものが勝っていく時代に入ってきている。
この充足基調によってそれまでの(私権時代の)代償充足である解脱充足、遊びといったものが、ほとんど姿を消し、仲間達と成果を生み出し充足するといった課題充足の地平に移行してきた。

そして現在、その先にようやく向かおうとしている。
その充足を仲間や身近な処から社会空間に広げていく過程である。
この段階がようやく認識収束、観念収束の地平になる。

★若者を中心に「社会収束」が進み、「自分から仲間へ」意識が向かってきています。

◆そして、東日本大震災を受け、意識潮流も加速度的に転換していっている状況です。

『報道と実感の乖離から事実収束の大潮流が巻き起こる!?』より

最近の政府や東電、マスコミ、そして、そこに登場する専門家達の発言やデータなどが、日を追う毎に覆されていくという異常事態になっている。

「異常事態」と書いたのは、これほど特権階級の「ウソ」が白日の下に晒されるという、嘗てない「異常」な「事態」ということだ。

特権階級はしきりに「安全」を連呼する。しかし、実態はどんどん危険な状態になっていく。安全として発表された数値もどんどん上昇していく。挙句の果てに、「基準」とする数値さえも、捏造される。(リンク
しかも、この「報道」と「実態」、「実感」との乖離により、ますます危険な状態を予感させられるという負の連鎖に陥り、人々の間に「本当はどうなの?」という意識が高まってきている。

それが、この『るいネット』や『自然の摂理から環境を考える』(リンク
)への爆発的なアクセスの増加であり、中学生の実感が捉える発信(リンク)であったり、ツィッターでの「事実」を求める発信に現れている。

この大災害とその後の「報道」は、政治家や学者やマスコミに対する不信をより一層強め、彼らに洗脳されないために、普通の人同士の繋がり(リンク)を基盤に、事実収束が益々進んでいくのではないか!?という意識の変化の大潮流が巻き起こるような予感がする。

★震災を受けて、官僚、特に学者の無能ぶりは誰の目からみても明らかとなりました。
「指導者(特権階級)は信用できない」という意識が高まっています。

『『今こそパラダイム転換が求められる時』シリーズ-2~不全発の『変革の必要』から、実現発の『認識の必要』への大転換」~』より

一方、3.11の東日本大震災、原発問題を受け、人々の意識はどうなっているでしょう?
東京のなんでや露店主さんの報告から抜粋します。

今回の震災でボランティアをしている人が来て、ボランティアからさらに踏み込んで、今後の日本を見越して組織のあり方などを語ったらより相手に響いた。
「何をしているんですか?」という質問に対して、自信をもって「日本の可能性について考えている場です!」と言うと反応が良い

「原発って必要?」というお題の中でアンケートを実施した。問いかけ方は「必要と思うか、不必要と思うか」の二択だったが「何故、必要なのか?」「本当に原発を無くして、電力は足りるのか?」など、突っ込んだ議論に。

みんな探索モード

震災を受けたことをきっかけに、必要なもの、本当のことといった事実追求を考えるようになったと言っていた。

地震よりも原発への危機感が高い。誰もが政府・マスコミ不信を前提に、若者は、一定ネット探索→放射能の危険性を自分なりに判断したりしている。年配層には、原発はダメだ!と価値観的な発信もちらほら。若者の方が冷静。全体的な意識としては、まずは、放射能はどこまでが安全といえるのか、なにをもって安全といえるのか知りたいという欠乏が高そう。

★「事実収束」とそれを「仲間と共有し確かめていく」という意識潮流が高まってきています。

大震災だけであれば、天災ということもあり日本人の本源性でもって復興に向けて団結して向かっていたかもしれません。しかし、福島第一原発という人災が起こり、しかもそれはいまだ収束先が見えない状況です。

この未曾有の私たちの生存を脅かす外圧が、一気に『認識の必要』へと向かわせるように思います。

なぜならば、るいネットやブログをはじめとするネット界で今起こっていることは、「今の政府・特権階級たちじゃダメだ」「あいつらを変えよう」などといった悠長な『変革の必要』などではありません。(もちろん一部ではそういう発信もあります。実際政治家は足の引っ張り合いをしていますし・・・。) でもそれ以上に注目したいのは、政府・マスコミが本当のことを伝えないのであれば、自分たちで状況を掴み、判断し、適応していくしかない。そのためにも素人たちで力をあわせ、知りうる限りの情報を共有しようという動きです。

自然災害を受けた時、欧米では必ず略奪が発生しますが、日本ではそのような行動は全くと言って良いほど見られません。

『大津波の大惨事に想う。』より

大津波の惨事(の映像)を目の当たりにするだけで、
被災者の皆の深層からでることばや表情に遭うだけで、
わけも無くただ涙があふれる数日でした。
大津波で洗い流され誰もいない三陸の海辺を目の当たりにして、
心の奥底から悲しみがあふれる数日となりました。

人は人の身になって想い・考え・行動するものだと、
人の心はその様に造られて来たことを、
日本人はこの大惨事でも深く感受した様に思います。

人と人の繋がりが本質であって人間関係が手段ではないことも、
人と人は深く依存しあって生きてきたことも、
この大惨事で共有しました。
やはり日本人は、人と人が深く信頼しあい依存しあう民族でした。

頼れるのは自分だけ、こんな個人主義は何の役にもたちません。
相手を信頼するから、活力のある集団の統合が持続されます。
相手を信頼しあう資質は、日本民族の最強の資源なのです。

金貸したちの意図によって個人にバラバラにさせるため洗脳教育(社会のことは考えないよう枠組みにとらわれてしまう)をとるという戦略に対して、今回の大震災を機に人と人との共有を大切にし、力を合わせ団結することが出来る日本人の縄文体質が顕在化しつつあるというのは、戦略を打ち崩す可能性です☆
この縄文体質を土台に、「事実収束」から自分たちで答えをだしていきたいという「観念収束」の意識潮流の流れが出来つつあるので、それに向けて教育制度も変えていく必要があります。それが今後求められる新しい教育を変えていく実現基盤となると思います

次回は日本において、今後求められる教育制度を考えるとき、実現基盤は何か?どういう方向で検討していけばよいのか?を固めていきたいと思います
お楽しみに~

投稿者 mikan : 2011年05月18日 List   

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