| メイン |

2011年05月15日

新たな時代の教育制度の提言に向けてシリーズ3~公教育の本質は「遊牧⇒交易部族出自民族」によって培われた【調教】にある!~

%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8%E5%BB%BA%E7%89%A9.jpg%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8.jpg
1年余りに亘って、公教育の成り立ちを調べてきました。
欧米~アジアの教育
日本の古代~江戸時代までの教育
日本の明治時代~戦前までの教育
そして、今年は戦後~現代までの教育を現在まで扱い、前回までで、一旦、過去の経緯の追究を終え、様々な問題点が見えてきました。

その中で、最も大きな問題点は、そもそも公教育とはなにか?という大きな視点で押え直すと見えてきました。

公教育の本質は、【調教】にあるのでは!?からの引用

公教育の成り立ちを調べていくと、「金貸し支配のための洗脳教育」という背景が浮かびあがってきます。(リンク) されにその前段には「キリスト教による洗脳」があります。(リンク)

この「支配」や「洗脳」ということは、日本人にとっては、中々馴染めない概念ですが、欧米人は略奪闘争勃発した前5000年辺りから「支配」の歴史であったことから、当たり前の発想として登場してきたのは想像に難くないです。彼ら西洋人の意識構造とその成り立ちについては、以前の「なんでや劇場」の以下の投稿が参考になります。
リンクリンクリンクリンクリンク

その中で、教育に対する価値感で特に重要なのが、以下の部分です。

その前に、
いつも応援 ありがとうございます

 にほんブログ村 子育てブログへ


%E9%81%8A%E7%89%A7%E9%83%A8%E6%97%8F.jpg %E3%83%9F%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%8D%E6%96%87%E6%98%8E.jpg

交易部族が武装集団化し攻撃性が強くなるのは世界共通であるが、白人が侵略性や騙し性が強くなったのは、彼らの出自が略奪集団(山賊・海賊)であり、一貫して、侵略・支配することしか考えていないからである。

また、ギリシアの時代から同じ人間を奴隷として使役してきたのが西洋人だが、その発想の原点は家畜を飼い馴らすことであり、人間を家畜同様に飼い馴らすという発想から奴隷制が登場したのであろう。
例えば、ギリシア・ローマでは、自分たちのことを「市民」と称しているが、これは共同体の成員ではなくなったので、新たに作り出した概念である。しかも、平等を口にしながら、市民だけが平等で、一方で市民の人口の数倍の奴隷を使役している。しかも、ギリシャの哲人たちもそのことに自己矛盾は感じておらず、平気でいる。

%E5%A5%B4%E9%9A%B7.jpg
%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%B3%E7%9A%86%E6%AE%BA%E3%81%97.jpg

いったい、その精神構造はどうなっているのか?

自我を制御するのが規範共認であり、西洋人がそれを喪失しているということは、彼らがとことん自我収束し、自我の塊になっていることを意味する。これが西洋と東洋の違いである。

①自我は他者否定と自己正当化の塊であり、
②自我の塊であるということは、「みんな仲間」という感覚を肉体的に喪失しているということと同義である。言い換えれば、本当の意味での平等意識を欠片もないのが西洋人である。
③他人を同じ人間とは見なしていない。他人は家畜同然であり、実際、ユダヤ教の聖典にはそう書かれている。つまり、潜在意識では他人を家畜視しており、「こいつらは人間ではないんだから(家畜なんだから)、騙しても支配しても(殺しても)良いんだ」と思っている。

あるいは、自分たちだけは自由・平等で、その他大勢の人類は自由でも平等でなくても平気で居られる(日本人から見れば、彼らの「思想」には論理整合性が欠片も無い)。要するに、自分たちとその他の人類とは別の基準=己に都合の良いダブルスタンダードになっている。これが西洋人の騙しの構造である。西洋人の観念群は共認基盤たる共同体や規範を喪失したために、(何もない所から)己に都合よく捏造した架空観念なのである。

%E3%82%B6%E3%83%93%E3%82%A8%E3%83%AB.jpg%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E4%BE%B5%E7%95%A5.jpg

彼らの、「教育」に対する価値感は家畜同様の「調教」にあるのではないかと思います。
そう考えると、キリスト教(プロテスタント)では、教職者を「牧師」と呼んでいます。そして、「迷える子羊」を導いているのです。

或いは、羊の群れを思いのままに操るには、群れのボス的存在を抑えておけば、その他はボスに追従するという発想から、ローズ奨学金(リンク)やフルブライト留学制度(リンク)などが行われ、或いは、幕末~明治初期の薩長や政府要人の留学や使節団の受け入れなども、その後の倒幕や明治新政府の「支配」を容易にするためのものであったと思われます。

公教育は、そういう意味では、指導者に従わせるための「調教」そのもので、キリスト教から派生した近代思想によって、「羊は羊として生きること」と「支配」を変ることのない現実として、頭の中に「実現されることのない理想(夢)」を想い描かせるためのものだったのです。

そして、群れの中では、まとまって歯向かってこないように、或いは、社会全体のことに目が向かわないように、「個人主義」を教え、「自由」や「人権」など「微妙な対立構造」を仕組み、仲間や集団ではなく「群集」として育て挙げてきたのです。
%E6%98%8E%E3%82%8B%E3%81%84%E6%9C%AA%E6%9D%A5.jpg
しかし、現在、金貸しの目論見も、ここ日本において崩れ去ろうとしています。

若者を中心に、「社会収束」が進み、「自分から仲間へ」意識が向かってきています。
また、今回の地震や原発事故によって、「指導者(特権階級)は信用できない」という意識が高まり、それにより、「事実収束」とそれを「仲間と共有し確かめていく」という意識潮流が高まってきています。もはや、「偽者:調教師」は無視され、群集から仲間・集団を求める意識が高まっています。

そういう意味で、今までの洗脳システムとしての公教育も見直していかなければならないという動きも当然沸き起こってくるのではないか!?と思います。

次回は、タイトル「新たな時代の教育制度の提言」と謳っているように、日本において、今後求められる教育制度を考えるとき、実現基盤は何か?どういう方向で検討していけばよいのか?の軸となる方針について扱います。お楽しみに!

投稿者 sashow : 2011年05月15日 List   

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2011/05/1194.html/trackback

コメントしてください