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2011年05月18日

【男の居場所はどこにある】 ~性権力を正当化する欺瞞思想~

前回は、近代が規範破りの性闘争→性市場が繁殖した時代であり、「自由な性」という私権観念が近代思想という形に姿を変えて広く社会に蔓延っていった歴史を追求しました。

個人や自由といった観念は、現実から乖離した架空観念であり、幻想でしかないはずなのに、何故社会に広く共認されてきたのでしょうか?

今回はここを掘り下げていきます。

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実現論 第二部:私権時代 「性権力を正当化する欺瞞思想」より

 性闘争=恋愛の主体は当然個人であり、その個人は、当然規範から自由でなければならない(何しろ規範破りの性闘争なのだから)。そこで、恋愛が至上のものとして共認され、自由な性市場が繁殖してゆくと、下司な迎合男(近世・近代の思想家)たちが、活力溢れる性市場に幻惑されて(何しろ、そこは社会の最基底の男女共認が形成される場である)、「個人こそ社会の原点であり」、「自由こそ最も大切な価値である」などと主張して、現実には性市場にしか実在しない、個人や自由を社会全体の原点や価値にスリ替え、この事実に反するとんでもない架空観念が性市場の繁殖と共に広く行き渡って、社会共認となって終った。

現在では、「恋愛は自由(誰からも制限されない)」と誰もが何の疑いもなく想っていることでしょう。でも、そのこと自体が、集団や社会を全く捨象して「個人が原点」になっているということには気付いていないと想います。

「恋愛は美しいもの」であるはずと思い込み、上手くいかないのは自分(相手)が悪いのであり、恋愛そのものに対して何の疑いも感じていないのではないでしょうか。恋愛が個人の自我(性的自我)に基づく性闘争であるからこそ、駆け引きやいがみ合いが当たり前になることに気付いていないのです。

自由であるはずなのに、何故か窮屈で息苦しかったり、疲れてしまったり、という経験は、多かれ少なかれ誰もに思い当たると想います。そんなこともあり、最近では恋愛に可能性を感じることができず、避けてしまう人たちも増えているようです。 :cry:

では、人間の集団原理に反し、かつ本当の充足に結びつかないこのような架空観念が、何故人々に共認されたのでしょうか?

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ポイントは、これら近代思想と呼ばれる思想が西洋発であること、またその思想が日本で広がったのは明治時代以降であることにあります。いずれも略奪闘争⇒私権闘争によって、本源集団が解体されているという点です。

村落共同体が存在していた江戸時代の日本では、「夜這い婚」に見られるように、男女の性は集団の中に包摂され、集団(=個人)の充足源でした。だから、性に対してお金など必要であるはずが無かったですし、集団内でのいかなる活動に対してもお金は必要ありませんでした。 :shock:

一方、略奪によって集団を解体されてしまった西洋ではその充足源も剥奪されていました。そのため、まずは支配階級となった宮廷サロンに自由な性市場が登場し、「恋愛」という規範破りの性闘争を正当化する架空観念が共認されると、性を抑圧されていた市民にも一気に繁殖していき、ついに社会共認にまでなってしまったのです。そうして出来上がったのが、性だけでなく何をするにもお金が掛かる社会(=市場社会)です。

明治に入った日本が近代化(市場社会)を目指したことは、村落共同体を解体してバラバラな個人を都市に集中させることだったのであり、これによって奇しくも西洋と同じ状況に陥りました。

つまり市場化とは、集団を解体してバラバラな個人を作り出すことなのであり、また集団を解体された個人の充足可能性は、性も含めて私権の獲得による自我充足のみとなってしまったということが大きなポイントです。そして、剥き出しの自我は人々に共認されませんが、それをもっともらしい幻想観念で正当化してくれる観念は、一気に共認されてしまったのです。 :shock: :shock:

この様にして、女(と迎合男)たちが恋愛(性闘争)や性権力の共認を男女解脱共認=最基底の支配共認として確立した以上、自由主義・個人主義をはじめ、全ての社会共認が女原理一色に染め上げられてゆくのは必然である。ところが、生殖存在たる女は元来、貯蔵や豊かさ志向etc.身の安定を求める傾向が強いが、他方の闘争集団への収束力は貧弱で、従って依存性が極めて強い。しかも性的自我の本質は、反集団性・反規範性に、つまりは反社会性にある。だから、集団や社会の為に何を成し得るかという発想は皆無で、専ら自分の為に社会は何を成すべきか(してくれるか)という発想しか出てこない。そんな存在が、役割規範を破棄して性的自我に収束すれば、『集団や社会をどうする』という視点など完全に欠落し、専ら集団や社会に対して、豊かさや安定や保障を要求するだけの要求の塊と化して終う。つまり、集団=自己(集団あっての自分)という自然に則した存在原理が、集団捨象の自我収束によって徹底的に排除され、あるのは他者否定と自己正当化の塊たる自我と要求だけとなる。

豊かさを実現した’70年以降の日本は、まさに女原理の社会だったと言えますが、翻って現在、すでに私権原理は崩壊しており、頭の中の「否定と自由」発の近代観念など誰も見向きもせず、もはや機能していません。

2008年のリーマンショックを契機とした経済危機や特権階級の暴走、幼児虐待、今回の震災や原発問題などを目の当たりにし、否応が無くても危機意識が芽生えていますが、その度にいずれも「どうする?」という答え=見通しが全くないことに、みんな気がつきはじめました。

るいネット「潮流9:経済破局を突き抜けてゆく充足・安定・保守の潮流」より

そこで求められるのは、経済危機を突き抜けていく確かな見通し=この危機を導き出した近代市場と近代思想を根底から突き抜け、乗り越えてゆく新理論である。
ここにおいて、’70年、生存圧力の弛緩によって生起した40年に及ぶ充足・安定志向(女原理)は、目前の危機を突破する新理論の実現期待を男原理に委ねることになる。

これまで男が居場所を見失っていた理由がようやくわかったような気がします。そして同時に、どこに居場所があるのかも少し見えてきました。

男原理の復活の次は、本当に充たし合うことのできる男女関係の復活ではないでしょうか。もう少し追求していきます。

投稿者 hiroaki : 2011年05月18日 List   

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コメント

しかし、これを書くためにあなたの時間を割いて、これは非常に有用であることを感謝をお伝えしたいと思います。

投稿者 seo tools : 2012年2月12日 08:34

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