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2011年04月29日

【男の居場所はどこにある】~性市場→商品市場の発生と繁殖

今日は4/16~性権力と占有権力の共認→表層観念の共認~の続きです。

近代~現代に至る社会観念は、一体どのような背景の元で形つくられてきたのか?

例えば、今も目が離せない原発事故という人災も、元は市場原理、つまり快美欠乏に基づく拡大再生産と、その為の効率第一主義の元で生み出された不完全なエネルギー生成装置が、大暴走をしてしまったという問題なのです。

この暴走の危険性をも簡単に捨象してしまうほどの観念、つまり私権観念の形成と、それらを大繁殖させた場=市場の核となったのが、性市場→商品市場の発生なのです。

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実現論 第二部:私権時代 「性市場→商品市場の発生と繁殖」より

私権の強制圧力は、必然的に支配階級⇒堕落した消費階級を生み出し、自ら働く事なく遊興に明け暮れる消費階級は、その性市場を母胎にして、必然的に(私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない)生産階級に商品市場を作らせる。ここで最も重要なことは、『市場の真の主は、市場の外にいる』という点である。市場の真の支配者は、国家や性市場の中に、支配階級=消費階級として存在しており、彼らは直接に市場の建設を担ったりはしない。市場の創出と拡大を主体的に担うのは、私権の強制圧力に追い立てられて働くしかない生産階級自身なのである!

近代市場が開かれる以前、つまり歴史上に国家という超集団が登場した段階で、支配階級という消費専属階級が発生しました。そこでは宮廷サロンが形成され、上記のごとく権力の掌握以降、必然的に堕落→崩壊、を繰り返していきます。

しかし近代以降、国家や市場の外側から支配する、という新たな形が出来上がって以降は、より大きな騙しの世界に国家も国民も巻き込まれていく事になります。つまり、金貸し支配構造の完成です。国家にとっての市場拡大の原資は、略奪、あるいは収奪(税収)に限られる訳ですが、そこには常に国家間の私権闘争圧力が働き続けます。そこに目をつけた金貸しは、国家に戦争を炊きつけ、思う存分金を貸し、自らは利息収入で遊び暮らす、という蚊帳の外からの完全支配の地位を確率しました。

そうなるとどうでしょう?

解脱収束し、堕落しきっても崩れることのない利権体制が出来上がってしまいます。 😯

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残念ながら、私権時代の男達というのは、大半が上記のような仕組みの中で追い立てられながら働き続けてきた、というのが現実 なのです。市場が新たな貧困を生み、その生存圧力・私権圧力に追い立てられながら、豊かさを求めて働き続ける。

このような不条理な世界が何故成立したのか?そこには、私権圧力を成立させるもう一つの軸が存在しています。それが、性市場。

中央集権による安定した平和状態が二〇〇~三〇〇年続き、戦争圧力が著しく低下する。それに伴って闘争第一の男原理が衰退し、解脱収束→軟弱化が進んで、規範破りの性闘争(=恋愛)が勢いを得、自由な性市場が繁殖してゆく。近世には都市全域が性市場化し(例えばルネッサンスの人間主義、その中心は性であり、その象徴が「ロミオとジュリエット」や「曾根崎心中」である)、人間主義≒恋愛至上主義に導かれたその巨大な性市場を母胎として、急速に交易市場が拡大していった。

この恋愛至上主義に導かれた性市場の氾濫も、西洋ならではの特殊性があります。

性市場が都市全域に拡大したのは何故か?⇒近世欧州市場の特殊性を参照下さい。

元々が、掠奪闘争の玉突きによって出来上がった連合国家、つまり今日の味方は明日の敵、という山賊・海賊集団を出自とし、それ故に強力な自我・私権収束とそれを正当化する架空観念への異常なまでの依存度を高めて行った歴史があるのです。

力によって女を支配・服属させようとする男と、懐柔によって男を手の平に乗せ巧みに利用しようとする女とのせめぎ合いこそが、性市場の土台を成す歴史的背景だったのです。文字通り、駆け引き・騙し合いによる規範破りの横行する世界。そして、その醜い男女間の争いを美化する概念が、「自由恋愛」という思想だったのです。

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「自分の」好きな相手を自由に選ぶ権利、と置き換えてみても同じ事。あくまでも主体は自分でしかなく、相手の事など考えていないからこそ、自由なのであって、相手発で物事を考える場合には、決して自由などは求められないはずですよね。

翻って現代。今でも「恋愛」という観念は残っていますが、こと日本において恋愛というものが元々思想の一つであり、かつ自由である事を求める関係性だなんて事は、殆どの方が意識すらしたことが無いでしょう。しかし、恋愛には悩みが付き物、等とも良く言われます。

その理由は明確ですね。

皆が求めているのは、お互いに充足のできる男女共認の世界。これは、男達と女達とを包摂した集団内において規範共認と共に初めて形成される関係です。

しかし、恋愛は常に1対1であり、自分で相手を選ばなければならない。つまり、規範など無いところから自発的に働きかけて、どちらかが折れる事によってしか成立しません。そして、大半が懐柔される事を受け入れる形で落着して行くのです。

本来、男女というのはお互いに最も不足している部分を補える関係であり、その存在自体が共に充足を与え合える関係です。

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所が、一度利害を挟んでしまうと、途端に己の都合に基づいて考えなければならなくなってしまいます。私権の弊害でしかありません。

性市場の成立過程を改めて俯瞰してみると、なんとも歪なものに見えてきます。これは逆に言えば、日本の特殊性とも言えるかもしれません。

つまり、西洋ほど過酷な殺し合いの歴史を持たず、近代市場化の波に飲み込まれても、尚集団性や共同性を辛うじて保持し続ける事ができた民族だからこそ、男女の規範共認と、規範破りの自由な性との間で綱引きが行われてきたのかもしれません。みんなが心の底から期待しているのは、本当に充足しあえる男女関係、というだけですよね。

こうなれば、男の居場所はきっと見つかりそうです 😀 。少し、答えが見えてきたような気がします。その答えに近づく為にも、なぜこのような歪んだ観念が共認されてきたのか?について、もう少し掘り下げていきましょう。

投稿者 kawait : 2011年04月29日 List   

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