社会共認の歴史(7)~現代~近未来 対象への同化こそが新しい認識を生み出す |
メイン
2011年01月08日
近代思想に支えられてきた家庭(3)~生産から離脱させ、消費へと逃避させるだけの近代思想~
shijimiです。新年明けましておめでとうございます☆ 😉
今年も家庭ブログよろしくお願いいたします。 😀
年明けそうそう福袋は買われましたか?社会人生活を始めて10ン年、変な話、誰も咎める人がいないので、「自分にご褒美 」と深く考えずに買えちゃいます。同様に結婚しているDINKSの友人達も金銭的には悠々自適な生活。都会暮らしならばなおのこと、世間に縛られず思いのままの暮らしが可能。(フフフッ )
しかし、何だって自由に買える状況なのに友人達からは、「別段ほしいモノがない」「買い物に行って疲れる位なら寝ていたい」なんて話を聞きます。
これまで、人より素敵(高価)なモノを持っていることが良いとされ、社会人生活も長くなって何でも買える豊かな生活が実現したはずなのに、「別段ほしいモノがない」とは…どういうことになってしまったのでしょうか?(私の友人達が特別な節約家という事?)
しばし、周りに聞いてみると、この現象は、同世代だけが顕著ではなく、むしろ、下の世代に行けば行くほど、「別段ほしいモノがない」→「嫌消費」(収入に見合った消費をしない心理的な態度を持っている)という意識が強くなっているようなのです。
今回は「自主管理への招待」シリーズの3回目。好きなモノに囲まれて悠々自適な生活が憧れではなく現実にできるのに「別段ほしいモノがない」とか、最先端の若者が「嫌消費」になる、今の状況が起こった原因はどこにあるのでしょうか?
「生産から離脱させ、消費へと逃避させるだけの近代思想」をお届けします。
続きを読まれる前にクリック願いします↓
【自主管理への招待(3)】
しかし多くの人々が、自己の日々の労働の、疎外された現実を見つめようとはせずに、観念的に飛躍した抽象的な「社会」を相手に、政治的要求をつきつける事が「社会的」活動なのだと、錯覚している。あるいは、社会の土台を成す生産のあり方を考えようともしないで、単に個人のためだけの消費的要求を掲げ、それを社会に押しつけることが「人間的」立場なのだと、錯覚している。要するに、自らがそのために何かを成すべき社会ではなく、何かをしてくれるだけの抽象的な「社会」を措定し、そこにすべての責任をおしかぶせて、自らは何か人間的で社会的な活動をしているつもりで済ましている。だがそれは、社会それ自身の存立を無視した、個人から社会への一方的なもたれ懸りであり、身勝手なエゴであるにすぎない。社会に何かを要求することしかできない(従って本当の社会を欠落させた)このような「運動」の結果、この社会は、労働者や農漁民が、消費者や地域住民が、あるいは経営者や地主が、互いに「社会」正義を振りかざして私的な利権を奪い合う、エゴのゴミ捨て場と化した。社会それ自身は、誰からも見捨てられ、断末魔の苦痛に喘いでいる。他ならぬ自分自身が、このような事態を作り出した当事者なのだという自己の存在の犯罪性に口をつぐみ、あたかも神であるかのような位相に己を移し変えて、いつも一方的に「社会」に罪をなすりつけるこのような意識構造は、何も一部の「進歩的」な人々だけのものではない。また日夜、紙面の至る所にこの狡猜な図式をちりばめて、世論をリードしてゆく「良識的」なマスコミだけのものでもない。社会に対する一方的な『否定と要求』のこの意識構造は、現代人すべてに共通の構造である。
この構造は、さらに近代を貫く、社会からの〈離脱と自足〉の意識潮流に根ざしている。むしろ、絶えず社会(生産)から離脱して個人(消費)へと逃避してゆく、個人主義の潮流こそ、否定と要求の根底に流れる近代精神の本流を成してきた。事実、人々は一貫して、「自己」が抑圧される〈労働〉を忌み嫌い、「自己」が解放される〈個人生活〉を希求し続けてきた。そして工業生産の目ざましい発展によって、労働時間が大幅に短縮され、人々の待ち望んでいた「豊かな」個人生活はすぐ手に届く所まで実現されてきた。しかし、近代工業生産を貫く効率原理が目標とするのは(それは又、「我、思う」だけで「我、在る」ことを願う近代個人主義の自我原理が目標とするものと同じであるが)、生産および生活のあらゆる存在過程から活動を省略して、欠乏(欲望)と充足を短絡化することである。ところが、一つの欠乏の充足が、活動を省略して効率的に実現されるや否や、直ちにその空白部は別の欠乏によって埋められる。かくして、工業の発展と共に、活動のない欠乏と充足だけの単純反復過程が増大し、それにつれて、生活のテンポが早くなり、生活の内容は貧しくなる。だから又、労働時間ガ短くなり、生活時間が長くなればなる程、逆に全存在過程にわたって本当の活動時間が無くなってゆく。実際、この社会では「豊かな」個人生活とは、その生活を手に入れるために先取りした家財のローン返済に追い立てられる生活のことであり、もみくちゃのレジャーラッシュに馳せ参じる生活のことであり、寸暇を惜しんでテレビにかじりつく生活のことなのである。
こうして本来の活動の場を見失った現代人は、コマネズミのように刹那的な欠乏と充足のコマを廻し続ける。そして、生活の回転が高速化してゆけばゆくほど疲労が増大し、ますます多くの余暇が必要になる。だが活動を喪い、刺激だけを単純反復させる過程の中にある限り、いずれ遊びさえ、疲労の元でしかなくなるだろう。それでも、「善良な」市民によるこの膨大な資源とエネルギーの浪費は、世論公認の個人主義の名において正当化され、むしろ美化され続けるのである。近代の意識の根を成してきた「個人」さえ宙に浮き、幻想と化したこのような事態を、誇張にすぎないと思う人は自分自身に問うてみれば良い。自分は、このような個人生活以外の、どのような生活を、認識を、自分自身を、獲得しえているかと。
考えてみれば、近代の全ての思想と運動は、実現された例しがない。その最も輝かしい空語は、常に最も暗い現実にとって代わられ、かの大いなる自我幻想は、常に最も無内容な自分自身にとって代わられてきた。つまり近代思想の歴史は、挫折と敗北の歴史であった。何故か?************************************
モノがあふれ、何の段取りをしなくても、お腹がすけば好きな時間にコンビニに、いつだって下着から化粧品までなんでもそろう。そんな時代にあって「何か充たされない…」という話を良く聞きます。そうなった原因に、近代思想による生産活動の苦役化や、欠乏(欲望)と充足の短絡化による疲労の蓄積があったとは…!!!と驚きです。
とすると、最近の若者の「嫌消費」という現象も、何でもそろった時代に、コマネズミのように刹那的な欠乏と充足のコマを廻し続ける疲労感を(潜在的に)感じて「必要ない」と判断しているのです。
反対にバブル世代は、近代思想である個人主義の名の下に消費社会を正当化し、社会から生産を切り離して、消費のみをして行くことを望んできた世代。 8)
しかし、こうして社会がガタガタになってくると、社会の根底部分の生産を切り離そうとする、近代思想は現実を見えなくさせるだけで、なんの役にも立たない 🙁 って事が露呈してきています。
つまり近代思想の問題性は、『生産から離脱させ消費へと逃避させるだけ』であることです。
今その事実を感じとった若者たちが「社会を変えるにはどうする?」「みんなの役に立つにはどうする?」と、生産活動=課題収束へと向かっているのです。 🙂
投稿者 shijimi : 2011年01月08日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2011/01/1144.html/trackback