社会共認の歴史(5)~『市場時代の共認非充足の代償充足⇒解脱(芸能)埋没』より |
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2011年01月06日
社会共認の歴史(7)~現代~近未来 対象への同化こそが新しい認識を生み出す
新年、あけましておめでとうございます
本年も「家庭を聖域にしてはいけない」を宜しくお願いします
さて、年末年始特別企画としてお送りしている“私権意識の成立構造”を解明する「社会共認の歴史」シリーズですが、今回は、前回の『’70年~現代 収束不全⇒本能的な秩序収束⇒課題収束⇒認識収束』に続き、最終回・・・『現代~近未来 対象への同化こそが新しい認識を生み出す』です。
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それでは、10/17に開催された『なんでや劇場』のレポート『10/17なんでや劇場(7) 現代~近未来 対象への同化こそが新しい認識を生み出す』 から引用します。
【6】現代~近未来は?
ここまでの流れは、本能次元の秩序収束⇒共認(仲間・課題)収束⇒観念(認識)収束という流れであるが、これは本能機能⇒共認機能⇒観念機能という人類の進化過程(実現過程)をそのままなぞっている。
このことは、現代~近未来が実現の時代であることを示しており、社会期待として捉え返せば、実現期待の時代に入ったとも表現できるだろう。
では、共認収束⇒認識収束の時代に生き残ってゆくために必要なものは何か?
それは、共認充足と(それを母胎にした)実現である。
充足を生み出すには、相手に同化する必要がある。実現するためには、対象に同化する必要がある。つまり、今後必要とされるのは、対象に対する同化であり、同化能力こそが現代~近未来の最終制覇力(実現力)であるということになるだろう。言い換えれば、観念力を鍛えるためにも、言語能力を磨くためにも、同化能力を鍛えるというのが最終回答になる。
これまでの私権時代は、私権(お金や身分)獲得だけがやるべきことであり、それ以外は捨象される歪んだ時代でした。
しかし、現代~近未来は、豊かさが実現し、私権圧力から開放されたことで、新たな認識、新たな時代の実現の可能性が開かれました。(⇒実現期待の時代)
今や、何かを実現する際の活力源は共認充足(心の充足)です。そして、充足するにも実現するにも、まずは相手(対象)を肯定視し、同化することからはじまります。(⇒同化能力こそが最終制覇力)
同化能力の形成過程は3段階に分けられる。
①赤ん坊は、学習本能によって、トコトン真似る=同化することで吸収する。
②小学校~高校では、観念力の基礎となる言語能力を鍛えるには徹底した暗誦・反復であり、その効果は実証済みである。ex.類塾の事例では、暗誦用テキストを毎晩15分反復した生徒は、半年で偏差値が20ポイント上昇した。
③問題はその先にある。5/30なんでや劇場「観念力を鍛えるには?」で最後に提起した問題は「現在は旧観念に代わる新理論が求められる時代だが、新理論の創出にはどのような能力が必要とされるのか?」である。では、新しい認識はどのようにして出てくるのか?リンク
まず興味or疑問をもって対象に同化すること。その際、蓄積されてきた事実認識群が同化する手掛かりになる。
例えば、今日の事例で言えば、部族連合の時代はどういう時代か?を、今日は「その時代の社会期待は何なのか?」という問題意識をもって、これまで蓄積された事実認識群を総動員してその時代に同化してみた。そのようにして対象に同化すれば、何らかの新しい認識が生み出される。
従って、対象に同化しさえすれば新しい認識が付け加わることによって、より正しく状況が掴め、もって事実を追求すること(原因を追求すること)が可能になる。
新しい認識の創出は超難問というイメージを抱く人が多いが、問題意識を元に対象に同化しさえすれば、誰でも新しい認識を生み出すことはできる。
実現の時代においては、新理論が必要となります。“新理論”というと、よほど優秀な頭脳の持ち主でないと無理!・・・と思い勝ちですが、実はそうじゃない。とにかくトコトン対象に同化する・・・これさえ実行すれば、誰でも新理論を生み出せる・・・考えてみれば当然かもしれません。そもそも対象への同化なしにはその真の姿・・・構造に迫ることは不可能だし、逆に、同化できさえできれば、必ず何らかの糸口は見えてくる。そして発見された構造こそが「新認識」となる。・・・これは大きな気付きです。勇気が湧いてきますね
また、このことは仕事の場面などでも言えることではないかと思います。焦って目先の答えを求めるのではなく、落ち着いて対象に同化する(状況や外圧を整理する)ことで、自ずと突破口が見えてくるということです。
では、それを阻む壁とは何なんでしょうか?
問題は、この思考パラダイムに転換できるかどうか?
古代宗教や近代思想はこれと逆のパラダイムにある。そこでは初めから答えは決まっており、「神」も「人権」も最終回答である。実際、古代宗教や近代思想が提示する観念群は、それが登場した時から全く進化していない。
だから、そのような言葉を発した途端に誰もが思考停止に陥ってしまう。実際、現在の学者たちも何も生み出していない。それは、彼らが観念信仰に囚われているからである。つきつめれば、彼ら御用学者が振りかざす観念群は彼らの飯の種であり、つまるところ彼らは己の私益のために追求しているからである。
それに対して、対象に同化しさえすれば、素人でも新しい認識群を生み出すことができる。そこで重要なことは、我々は対象に同化するために追求するのであって、私益のために追求するのではないということである。
今後最重要である対象への同化を阻むのが、はじめから答えが決まっているがゆえに人々を思考停止に陥れる“価値観念群”(古代宗教や近代思想)です。我々は、教育やマスコミ報道などを通じ、無意識にこうした価値観念群を植え付けられ、多かれ少なかれ誰もが生来有している同化能力を阻害され、思考停止に陥らされているのです。
しかし、これは、「新しい認識の創造」は、そうした価値観念から比較的遠い私達のような素人にこそ可能なのであって、学者先生などのプロにその資格はない・・・ということをも意味している思います。
・・・これも、大きな気付きです。
また、古代宗教や近代思想は価値観念であるが、同化することによって獲得される認識は事実の認識群である。そこには善悪などの価値判断は入っていない。認識収束の時代において、価値観念では万人が共認することはできない。ex.仏教徒とキリスト教徒が同じ観念を共認することはできない。事実だからこそ万人が認識を共認できる。だからこそ、その認識が統合原理となり、万人が紡ぎ出す事実認識の体系が、次代の社会統合の核となるのである。
貧困の消滅→私権の衰弱から40年を経、私権獲得のための市場競争を正当化する価値観念群はいよいよ化けの皮を剥がれ、無意味化しつつあります。と同時に、若い世代を先頭に同化能力再生の萌しを感じることができます。
そして、「事実だからこそ万人が認識を共認できる」・・・この極めてシンプルな原理に導かれ、事実認識を紡ぎ出すべく、認識収束の潮流が顕在化してくる・・・2011年は、そのような年になっていくのではないかと感じています。
↑みんなで事実認識に紡ぎ出す場 = なんでや劇場
<参考投稿>
投稿者 kota : 2011年01月06日 TweetList
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