10/17なんでや劇場(4)西洋の自我収束⇒観念収束⇒唯一絶対神信仰 |
メイン
2011年01月04日
社会共認の歴史(5)~『市場時代の共認非充足の代償充足⇒解脱(芸能)埋没』より
あけまして、おめでとうございます。
この記事も引き続き、【社会共認の歴史】シリーズです。
前回までは、西洋の特殊性…共同体=共認基盤の破壊度が大きいことが示され、結果、集団や社会を統合するには観念機能に依拠するしかない社会となっったことが展開されました。その中身は中世では、宗教:キリスト教。近代市場社会では西洋近代思想。
そして西洋に遅れて東洋においても、市場社会→豊かさ期待と近代思想に染まっていくなかで、共同体がどんどん解体され併せて共同体規範も解体されていきます。そして、人々は共認非充足の状況へと追い込まれていきます。これは、全世界共通の流れと言えるでしょう。
それでもその代償として、中世西洋では宗教が、武力支配時代の東洋でも規範に収束できていました。
しかし、市場社会にはいると、規範は解体され宗教は廃れる一方。しかも、近代思想は庶民には定着しない。 😥
人類は、共認充足無しには生きていけません。では、近代市場社会以降、共認非充足の状態は何によって処理されてきたのか?
共認充足の歴史から追ってみます。
よろしくお願いします
【10/17 なんで屋劇場(5) 市場時代の共認非充足の代償充足⇒解脱(芸能)収束】より
歴史的に、共認非充足はどのように処理されていたのか?
原始時代は自我・私権は封鎖されていた。
部族連合時代になると自我・私権が登場し、それだけで共認非充足が発生する。
武力支配時代になると、集団統合への参加資格も剥奪され、身分支配によって抑圧されるので、共認非充足は増大する。
市場時代になると、村落共同体もなくなって、共認充足できる場がなくなってゆく。このように時代を追うごとに共認非充足は増大してきたが、各時代において、共認非充足はどのように処理されていたのか?
■共認非充足とは…
そもそも共認非充足とは一体、何なのか?
原始時代においても仲間が死ぬこと、これが最大の共認不全であっただろう。∵最大の充足源=共認対象がいなくなるわけだから。死の問題は原始時代は精霊信仰に、部族連合の時代は守護神信仰に収束することによって解消されてきた。死の問題は超越的なものに収束するしかない(現在の葬式に見られるように、それは現在も変わっていない)。
近代市場社会では、それまでの時代よりも共認非充足が甚だしい。ところが、宗教は衰弱しているし、近代思想は現実には存在しない架空観念なので、共認非充足は解消できない。
そこで増大する一方の共認非充足を解消したのが、歌・演劇・映画etcの芸能である。近代思想に収束したのは知識階級だけだが、芸能は万人が解脱収束する。つまり近代は共認非充足の解消先が宗教から芸能に移行した時代であるとも言える。もちろんそれは、共認非充足を芸能の観客(傍観者)として代償充足させているにすぎず、本物の共認充足ではない。
ルネサンスが宗教(観念)収束→芸術・芸能収束への転換期である。以降、宗教収束力が衰弱するに従って芸術収束~芸能収束が強まってゆく。
近代思想と芸能の関係をよく表す言葉を’70年安保の時の首相が残している。「今騒いでいるのは一部の人間にすぎない。大衆はプロ野球を観て楽しんでいるではないか」という発言だが、客観的に見てこれは事実と言わざるを得ない。政治闘争は近代思想抜きには成立しないが、近代思想に収束していたのは知識人や学生だけにすぎなかった。それに対して、娯楽には万人が収束していたのである。
■宗教から芸能へ
近代になって、宗教への収束力が衰弱した「神が死んだ」のは何故か?(その後、’70年になると、近代思想も生命力を失って死ぬ)
①最も決定的な要因は、自然圧力の低下である。原始時代の精霊信仰以来、観念は自然圧力に対応するために作られてきた。→自然圧力を克服するにつれて観念(宗教)への収束力が低下したのである。
②古代・中世ヨーロッパの救い欠乏を強く孕んだ大衆が、宗教(キリスト教)に強く収束したのは、そこにしか可能性がなかったからであるが、逆に市場の拡大によって、現実に私権拡大の実現可能性が開かれると、宗教への収束力は衰弱した。
③共認非充足は宗教or芸能によって解消するしかないが、非現実の架空観念である宗教よりも、刺激の強い芸能の方が収束力が強いため。
改めて、近代市場社会を振り返ると、次のような構造になる。
武力支配時代の3重の圧力(自然圧力×同類闘争圧力×支配圧力)からの脱出口としての市場拡大=豊かさ期待に突き動かされてきたのが近代である。そのために自我や私権拡大を原動力とした結果、共認非充足は甚だしくなった。その代償充足手段としての芸能に万人が収束していった。豊かさ期待と解脱埋没、これが近代市場社会における社会共認の中身である。
しかしそれは、所詮代償充足でしかなく、本当の共認充足たり得ません。なぜか…?それは、次の記事に乞うご期待…。
>現実が私権闘争に支配されていた頃、人々は失われた共認充足を架空世界に求めた。それが代償充足としての“涙”や“笑い”であり、映画やテレビを爆発的に普及させる原動力となった。貧困が消滅し、私権が衰弱し、共認充足の可能性が開かれた現在、これら代償充足を生み出すメディアはことごとく見捨てられ始め、代わりに人々の“現実”=本能回路や共認回路は、生々しい仲間充足や現実課題に鋭く反応するようになった。(リンク)
>私権時代から共認時代へと大転換した今や、共認充足を知らないということは人間失格、少なくとも社会人失格(全く戦力にならない)である。そのためには、まず人間関係の否定視から脱却して肯定視することが共認充足を得るイロハのイである。(リンク)
に有るように、現代は本物の共認充足に価値を見いだす時代に転換しました。パラダイムが転換したのです。
皆さんのご家庭はどうですか?この正月ご家族の会話は弾みましたか…?正月番組は、おもしろかったですか…?
今年みんなで何かを成し遂げる。そこに共通の課題があり、そのための役割・分担があり、そしてそのために「どうする?」。これが、「一年の計」。そのためのワイワイガヤガヤ。きっと、楽しいですヨ。共認充足って、こんなところからスタートだと思います。
投稿者 hajime : 2011年01月04日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2011/01/1136.html/trackback