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2010年03月22日
現行の『婚姻制度』~その中身と成り立ち(8) 日本人はどのように恋愛観念を受容したのか?
かつて、それ以外は本当の結婚にあらずといった見方もされていた(?)「恋愛結婚」ですが、これからの時代、死語になっていくかもしれません。
現代の若者から見ると「恋愛結婚とは将来の見通しも不確かで、安定基盤も無さそうなものだし、そんなものによくみんなが突き進んだものだな」といった感想を抱くようです。
江戸時代までの日本社会では、庶民は夜這い婚の規範の下で、おおらかな男女和合共認によって充足した生活を営んでいました。
そのころと比べると、明治以降の近代化の中で普及した一対婚制度・恋愛結婚はいかにも窮屈なものに見えます。
今回は、江戸時代までのおおらかな男女関係を捨てて、なぜそのような窮屈な婚姻制度が普及していったのか、改めて整理してみたいと思います。
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引用元はこちら⇒「日本人はどのように恋愛観念を受容したのか?~明治編①」
先日のなんでや劇場では「これからの男女関係は?」が扱われ、改めてサル以来の男女関係を振り返り、恋愛がイデオロギーに過ぎず、しかも日本の庶民層においては戦後60年(90年半ばからは実質衰退過程に入っていることを考慮すれば50年)の命しか持っていないことが明らかになった。
庶民が縄文以来の夜這婚=集団婚の実質を持ち、恋愛観念から無縁であったことは勿論のこと、武士階級といえども家意識で統合されていた訳で、結婚の実態は見合いであったことを思えば、江戸までは間違いなく男女関係の中心軸は性市場での恋愛ではなく、規範=役割意識に支えられた和合共認であったことは疑いの余地がない。(現に江戸時代の庶民に受け入れられた心中ものは、専ら私権意識やら身分意識に阻まれた男女和合を問題にしていたし、好色ものは集団婚なき都市における代替システムともいうべき遊郭を舞台にした奔放かつ粋な世界を描いたものである)
江戸時代の風俗については多くの文献があり、おおらかな男女関係の社会であったことが知られています。農村では夜這い婚の規範があり、江戸や大阪などの都会の長屋でも大家と店子が一家のような関係の共同体的な生活場面があり、夜這い婚のような規範もあったようです。
江戸時代末期に日本を訪れた外国人たちの記録によれば、庶民は男女ともによく働き、慎み深く幸せそうであり、子供たちもみな幸せそうに遊び、街はきれいに掃き清められ、当時の西欧都市に比べて格段に清潔な環境であったとのこと。
物的な豊かさとは別の、共認充足につつまれた豊かな社会がそこにありました。
なんでや劇場でも問題として取り上げられたように、日本人になじみのない恋愛観念が定着するには、不倫をタブーとする厳格な一対婚規範が定着する必要があるが、日本人はどうしてそんな窮屈なものを受け入れてしまったのだろうか?自我の性が衰弱し和合共認が再生されつつあるにも関わらず恋愛観念の呪縛が解けないでいる現在、一対規範と恋愛観念受容の日本近代史の解明は、その突破口を考えるヒントを与えてくれるかもしれない。
外来の価値観念であった「恋愛」が日本社会に取り込まれ広がって行った経緯を確かめることによって、その呪縛から脱却する筋道も見えてくるのだと思います。
下層武士階級を中心とした明治維新によって、西欧文化が一気に押し寄せ日本社会を大きく変えていきました。⇒以下の引用へ
まずは明治政府における婚姻制度改革の流れをおさえてみたい。明治民法の規定には「妻は婚姻によりて夫の家に入る」「夫は妻の財産を管理す」「家族が婚姻を為すには戸主(家父長)の同意を得ることとする」とあり武士階級の家意識が引き継がれたものになっている。
しかしこの民法制定の前にフランス人法学者ボアソナードの起草に手を加えた旧明治民法が存在する。この旧明治民法は私権を広範に認めるものになっており家父長制度に反する内容を多く含み、「民法出でて忠孝滅ぶ」と大反発にあい、(自由民権色の強い)フランス法学よりは(民主主義後進国であった)ドイツ法学に依拠した作り直しが行われ明治31年施行となった。
ボアソナード博士
このように明治の支配階級においてはフランス流の急進的な自由民権思想(個人主義的で男女平等意識も含まれており家父長制を否定した夫婦同権論)と家意識を中心に置いた皇室中心主義的な思想の相克の時代であったといえる。前者の代表は福沢諭吉、森有礼らであり、後者の代表は初代東京帝国大学学長の加藤弘之であった。
明治政府は西欧列強諸国との対等な位置に到達すべく、西欧流の法律・制度の制定を進めました。民法や憲法など全て西欧諸国を手本にして作られていきました。
また、家父長権を定め、イエを村落共同体から独立させて、天皇の下に全国民が従属する中央集権国家の形成を進めます。夜這い禁止令も明治から大正にかけて何度も出されたようです。(村落共同体を解体するための政策でもあるわけですが、何度も出されたということは庶民は充足度の高いそれまでの男女規範を手放そうとしなかったということを示しています)
一方、明治時代に文化人・エリート層の中で恋愛論争が繰り広げられたように、上流階級の中から西欧流の近代思想や恋愛思想が広がり始めていました。しかし、イエを中核とする社会統合体制が作られていく中で、自由民権運動は弾圧を受けるようになっていきました。
婚姻規範についても見合い婚が中心になっていったことから、イエ(家父長)を中心とする規範の方が優勢で、恋愛は実態としては封じ込められていました。
文化人・エリートたちの多くは、「ハカマギ」などと呼ばれて村落共同体を離脱して(のけ者にされて)都会に出てきた者たちです。財はあっても男女和合の関係からは疎遠で、共認非充足の存在であり、西欧流の先進思想を自身の売り物にするしかなかったわけです。
また、上流の女たちも男女和合の関係からは疎遠であり、必然的に自身を高く売りつけて私権獲得する方向に向かいました。そんな彼女たちにとって恋愛思想は好都合で、美しい言葉で飾りながら性的商品価値を高めてくれるかっこうの幻想観念だった訳です。
~やは肌のあつき血汐にふれも見で さびしからずや道を説く君~
与謝野晶子作の有名なフレーズですが、これを言われたら男たちは勝てませんね。
一方、庶民は貧困の克服が第一課題であり、イエを中心に男女ともに生産・労働に収束するしかなく、恋愛に収束する余裕はありませんでした。その中で、女たちにとっては自身の性的商品価値を高めることが私権獲得のための最上の手段であり、恋愛思想はまさに好都合でした。男女和合の関係から女たちが先に離脱し始め、男たちはそれに追従して女を獲得するためにひたすら私権獲得に向かうしかなかったのだと思います。
このように、市場が拡大し始めた都会では、上流から下層階級まで共認非充足ゆえの代償充足が必要になり、恋愛思想がそこにうまくはまったと言えると思います。
言い方を変えれば、市場の拡大とともに私権圧力が高まっていく中で、実態はほとんどの人が見合い婚に向かったことから、恋愛とは頭の中だけの幻想価値(あこがれ)として存在し、それゆえに美化されながら広がって行ったと言えるのではないでしょうか。
「一夫一婦ともに老いて同じ墓に入るを最上の倫理と認めるべし。表向きの縁談なればとて当人の気の進まぬものを強いるは娼妓に売るのと変わらない。わが国の男女を憂鬱と殺風景から脱するには両性交際を自由ならしめ、相近づきて相見る集会の仕組みを設けるべし」・・福沢
「富貴なものたちが家に複数の妾を抱えている状態は問題である。妻には貞操を強要しながら自らは情欲をほしいままにしている。政府は本妻に子がない場合は妾の子に家を継がせることをよしとしているが、それを訂正すべきではないか」・・森
「夫婦対等は原理的にはそうかもしれないが、今日の欧州における交際の実態は婦権の方がかえって夫権を超えている。このままでは日本も婦権強大の弊害を被ることになる」・・加藤
福沢諭吉 森有礼 加藤弘之加藤先生の見解がもっとも本質をついていると思いますが、これらエライ先生方のいずれもが、婦権(性権力)の拡大には抗えなかったと言えます。
次回、「現行の婚姻制度、その中身と成り立ち(9)」に続く。 :blush:
投稿者 wyama : 2010年03月22日 TweetList
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