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2010年02月20日

現行の『婚姻制度』~その中身と成り立ち(4) 夜這いの解体4

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写真(左)は、ここから、(右)は ここからお借りしました。

前回に引き続いて、“夜這いの解体と一夫一婦制の確立”を見ていきたいと思います。
昭和に入るとさらに、“夜這い婚”は解体されていきます。

夜這いの解体と一夫一婦制の確立4 より

<昭和 農業用発動機の開発>
昭和になると、夜這いはほとんど姿を消し、家と家との見合い結婚へ急速に移行した。それには農業用発動機の開発で、臼摺り、脱穀などの調整作業が動力化され、少数の作業員を雇うだけで済むようになったことが、大きい影響を与えている。もはや若衆に協力してもらう必要はなくなったから、「夜遊び」の若衆たちを閉め出してしまった。

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写真は ここ からお借りしました。

機械の導入は、大きく二つの意味合いを持ちます。
1、村落共同体の解体⇔私権の追及
2、格差の形成・格差の拡大

戦後の農地解放からも解かる様に富の集中=大地主が出来上がっていたことが読みとれます。
機械を導入しない昔ながらの農業は多くの人手がかかる一方で、共同作業を通じて村の決まりごとや、ともに生産活動を担うための役割や評価(→充足)が出来上がっていった。

機械を導入することによって、人手を減らすことができるが、共同体的繋がりは薄くなりバラバラに解体されていった。みんなの充足の為の“規範”よりも私権獲得へ向かうようになる。

生産活動を共に行なうのではなく、持つ物=地主と持たざる物=小作との格差を広げていった。

市場の拡大という視点で見ると、村落共同体では、自給自足の生活が可能であり、それでは、売上=税を徴収しにくくなる。又は資本家(金貸し)が儲からない。国家としては、戦費が賄えなくなることを意味する。

明治半ばから第二次世界大戦まで、ほぼ10年おきに戦争が勃発(参照:リンク)していたことを考えると、膨大な戦費が必要であり、国家体制としても、村々でどうする?というよりも、“国家としてどうする?”という外圧がかかっていたと考えられます。

<戦後 農地改革、その後の経済構造の発展>
戦後の農地改革、その後の経済構造の発展で、昔の村落共同体は完全に解体され、夜這いその他の民俗も廃絶されるか、著しく変形して残るものもあったが、ほぼ夜這い民俗の伝統は終わったとみてよいだろう。

夜這い婚が衰退する状況を前回、前々回で見てきましたが、一方で一夫一婦制が法的に導入され弾圧され続けたにも関らず、一部戦後まで“夜這い婚”が残り続けたということは、充足できる“場”であり、システムだったのだと思います。

現代では、恋愛婚が、当たり前。 「見合い結婚なんて古臭い!そこまでして結婚する必要あるの?」 と言う声を一部で聞くことがありますが、恋愛婚が見合婚の割合を上回ったのは、戦後、20年以上も経ってからの1970代に入る前であり、明治に“恋愛観念”が導入されたにも関らず、殆ど根付かなかった。
戦後の農地改革
私有権ではなく使用権だった!
農協の実体①~農業協同組合の誕生~
農協の実体②~経営悪化を政府救済でしのいだ組織の宿命~

<これまでの民俗学の態度>
明治政府の「家父長」制的家族の創出は、古いムラ共同体の慣行を破壊し、全国的に婚姻様式を統一しようとするものであった。しかも、それは有産層、有識層の利益を保護するためのものであったから、その強行に対してムラの若衆仲間、娘仲間が反抗し、かれらの息子、娘たちに報復したのは必然であったといえる。問題は、そうした反抗運動を、ただ犯罪的現象であるからとして、結婚民俗から切離していた、これまでの民俗学の態度であろう。支配権力の都合がよい、それに迎合した婚姻習俗だけを、ムラの生活から切離して採取したところで、どうして生きている民俗を記録できるものか。

国家統制・統合するに当たって、村落共同体の繋がりは、邪魔でしかなかった。まず、ここにメスを入れるために、村落共同体をバラバラに解体し、家を単位に明治政府(天皇)を中心とした国家体制を作りあげようとしていた。
国家体制=一部の特権階級の都合のいい体制でしかなかったのではないだろうか。

核家族による密室家庭の諸々の問題や、現代の結婚制度に対する違和感など、
大きくは、村落“共同体”の解体=バラバラな“個人”に解体されてしまったことに起因するのではないかと言うことが導き出されます。と言うことは、地域であれ、企業であれ何らかの“共同体”の再生なくしては、ますます行き詰まりをみせるだけではないでしょうか

次回は、根本問題である『村落共同体の解体』を見ていきたいと思います。

投稿者 sodan : 2010年02月20日 List   

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コメント

戦後の農地改革が決定打だったように思います。

小作農であった庶民たちにも私権獲得の可能性が開かれ、市場の囚人へと取り込まれていくことになりました。
婚姻制度の観点からみると、小金持ちへの可能性が開かれ、同格か上位の家との結婚を望むようになり、明治期以降の地主層たちが夜這い婚から離脱していったのと同じ道を歩むきっかけになったと思われます。

投稿者 わっと : 2010年2月25日 00:02

ヨバイを短絡的に夜這いと訳していいのでしょうか。
高群逸枝著の日本婚姻史によれば、女が男を呼ぶのがなまりヨバイという説もあり、柳田国男著の婚姻習俗語彙にはヨバイは記載されていません。
女による男へのヨバイの地域もあります。
しかし現実はヨバイより親同士が婚姻を決め本人との対面するために見合いが発生しました。
ヨバイ以外に嫁ぬすみという風習もあり、嫁ぬすみも各地様々な形態をしております。
おおかたは親同士による婚姻が決められ、村内では若衆による嫁ぬすみ、そしてヨバイと続くようです。
ヨバイは既にお互いの同意がなされていた上での行動であったり、親により為されたものであったり、巷に言う若衆による行為もあるにはあったでしょう。
現在イメージする夜這いとヨバイは全く異なっているようです。
ヨバイ=夜這いとなったのは、最近の使い方のようです。

投稿者 木藤幹雄 : 2010年2月26日 09:45

ヨバイについて、Wikipediaでおもに西日本の農村地帯の風習と書かれており、ネットでは山城町・松尾川流域・牟岐町・神山町周辺・野田市の民族帳調査が掲載されてます。
ヨバイを日本全国一律に考えるのは基本的に誤りである地方の風習です。
しかしこの民族帳調査はある人の意見を徴収したにすぎなく、現実どうなされていたのかは資料として存在してません。
ヨバイがイコール、セックスにつながるというのは想像であり、事実の資料はありません。
女性の性の解放はバブル期頃よりで、それ以前更に戦前は貞操観念が強く、婚前性交というのはごく進んだ人にある現象です。
江戸時代は性におおらかと言われてますが、婚姻を前提にしない性交渉は考えられません。
江戸時代明治時代の婚姻は親が殆ど決めており、ヨバイはかなり特殊な風習であり、それをした人も特殊な人と考えられます。

投稿者 木藤幹雄 : 2010年2月26日 18:49

木藤様はじめまして。コメントありがとうございます。

ヨバイの風習に関しては、赤松啓介氏の著書などによれば地方ごとにとても多様で大らかな風習が実際に在った事が記されています。

赤松氏は同時に柳田氏の近代思想よりの風俗解釈には批判的で、自らの体験を元に記された赤松氏の著書の方に説得力を感じます。

また、ヨバイの実態については口伝や民話等で少なからず伝えられている部分もあり、むしろ日本においては貞操観念の方が近代以降の特殊なものとして作られたものではないかと考えています。明治~大正期に、処女規範についての論争が盛り上がったのも、当時作られた風習である事を物語っています。

但し、江戸以前の日本も貴族・武士階級と村落とでは大きな違いがあり、庶民の側にのみ存在した規範として捉える必要はありますが、日本に限らず農耕民族には集団婚の様式が多く見られる事も、大らかな性関係の実在根拠となると思われます。

投稿者 かわい : 2010年2月28日 00:09

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