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2009年11月28日

“遊び”の再生 ~「遊び」と「学習」「生産」が分断してるのなんで?~

みなさん、こんにちは~ :nihi:
前回前々回のブログでは、
“遊びが学習過程として重要である”という記事を紹介してきました

“遊び”とは、本能・共認回路を太く鍛え、実現回路を形成する訓練 子供たちは、“遊び”の中から生きていく上で必要なことを“学んで”いくのです :tikara:

しかしながら、実際にみなさんの周りを見渡してみるとどうでしょうか
「遊んでないで、勉強しなさい 」や「勉強と遊びのけじめが大事 」という言葉に代表されるように「遊び」と「学習」を分けて考える方が多いと思います

遊びは、遊び。学習は、学習。
実は、この意識こそが「遊び」も「学習」も、そのどちらをも劣化させているのではないでしょうか 🙁 ?
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◆「遊び」と「労働」・「学習」との対立

>「遊び」と、「労働」・「学習」とは、本来は対立しないものだが、時間的・空間的な制限から時と場合によっては、極めて厳しい対立を生むこともある。「遊び」の外的矛盾として、「労働」や「学習」との対立が考えられるのである。
もともと「学習」と「遊び」の出現は、「労働」から解放された時間ができたことと、密接な関係にあった。その後、「学習」が義務的になっていくなかで、「学習」が「労働」の方へシフトしていった。こうして、「遊び」は限られた時間を、「労働」・「学習」と分かち合うようになったのである。その分かち合いが時には対立となって、その時々の「遊び」のあり方を決めてきたのである。

◆本来、「遊び」と「学習」「労働」は対立しないもの。

>近代以前の、いわゆる伝統社会では、「遊び」と「仕事」の区別がなかったと、多くの文化人類学者が報告している。たとえば、岩田慶治氏は、北部ラオスの村で調査していたとき、おとなも子どもも朝早く川に水を汲みにいくのを見て、子どもにとっては重労働であるはずの水汲みを苦役というより、じつに楽しそうにやっていることから、仕事と遊びの境目がわからなかったと述べている。そして、「仕事と遊びの区別がつかないというのは、なにも北部ラオスの村々の特殊事情ではない。多かれ少くなかれ、それが伝統社会における仕事と労働のひとつの特徴だったのである。もちろん、水汲みと米つきだけの話ではないことはいうまでもない。竹籠づくりも、捕鳥のワナ掛けも、魚釣りも、畑仕事も、水田の作業だって、それにたずさわる村びとの気持ち次第で、また、その仕事、その行為にふくまれている風景の枠組み、画面の枠のとり方次第で、労働にもなり、遊びにもなったのである」(『人間・遊び・自然』日本放送出版協会)という。
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◆なぜ分断されていったのか?
上記の文章を読んでもわかるように、集団内での役割が明確であれば、遊びは労働の訓練となる。
「遊び」と「労働」の分断とは、「集団の解体(→集団課題の消失)」による「生殖」と「生産」の場の分断に他ならない。
もともと「生殖」も「生産」も包摂した集団課題としてあったものが、近代化によって農村から都市へと若者が流れ込み、村落共同体などの農村部の集団は悉く解体されてしまった 😥

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>市場の拡大に伴い、村落共同体は徐々に解体されてゆき、人々は都市において自由な=バラバラの個人として生きざるを得なくなる。これが個人主義浸透の物質的基盤となる。(また同時に貨幣の浸透に伴い、金があれば一人でも生きていけると言う基盤ができる、これも個人主義が浸透する物質的基盤となっていく)

これまであった集団課題は消滅し、全てが“個人課題”へと成り果ててしまった。
そして、子供の育つ環境も大きく変化をせざるを得なくなった。

>世界中に普及した学校制度の導入により、子ども期は、遊びと勉強との区別を覚える、いいかえれば、身体の規律化や合理性を身につける期間となった。そこでは、遊びは、真面目な勉強の一時的な中断でしかなく、その領域を侵さない程度において容認されるか、あるいは勉強の役に立つ限りにおいて容認されるものでしかない。

こうして、「遊び」と「学習」は分断されてしまった

◆その結果どうなったか?
遊びは、主体的に充足する方法やみんなが楽しめる方法を実現するために創意・工夫をする中で発展していくものだったし、それが結果として、将来の仕事などの現実課題を突破する場面でも糧となり役に立った :tikara:

しかし、集団が解体され、集団課題がなくなり全てが個人課題となり、
子供にとって“遊び”が、時間的・場所的にも“与えられるもの”になってしまった・・ 😥
そうすると、子供たちはどうなってしまうのか

>子ども達が作る仲間世界の変化には別の現象もある。それが”遊び”の変化。昔は、子ども達の魚とりなど、子ども達自身が遊びを企画・計画していた。遊びを企画する能力があった。ところが80年代から、自分たちで遊びを企画する能力は衰弱し続け、ほとんどなくなっている。
>だからこそ、現代の子ども達は、ディズニーランドやカラオケなど、供給側から用意されたものに行くことしかできない。自分たちで遊びを企画する能力が既にない。
>これらの現象群は主体性(=外圧に立ち向かっていく能力)の衰弱→喪失を表しているのではないか?

主体性の喪失
遊びが、“生きてゆくために必要なことを学ぶ”ためのものから、
単なる“自分が楽しむだけ”“決められたものをこなすだけ”になってしまった

◆どうする??
遊びには、大人の真似、つまり“集団やみんなの役に立つ男(女)になるための訓練”という重要な側面がある。
しかし、現代は「生殖」と「生産」の場が分断されていて、子育てが生殖だけの場で行われる限り、生産の場で働く親や大人の姿(社会の役に立つ姿)をみることがない

最初のラオスの例でもわかるように、集団が解体される前は、大人も子供も同じように外圧を受けていたし、“こういう大人(男・女)になれば、みんなの役に立てる ”という“同化対象”が身近にたくさんいた
よって、実現イメージも湧きやすかったし、同化対象たちを真似していくことが“遊び”であり、“学び”でもあった :nihi:

必要なのは、子供も含めて、現実の課題を担える場
それがなければ、遊びが学習課題という機能も果たすことができない
そういった場を再生させていくことこそ、遊びや学びもひっくるめた子供の教育において最も重要なことなのだと思います :love:

投稿者 yamajun : 2009年11月28日 List   

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コメント

>必要なのは、子供も含めて、現実の課題を担える場

確かにこうした場が出来れば、子供たちの主体性も飛躍的に向上しそうですね!
こうした場が実現すれば子供の問題に限らず世の中で起きている問題の半分くらいは解決しちゃいそうですね^ー^

投稿者 黄色のタイは期待の証 : 2009年11月28日 22:40

>遊びと仕事に境界は無かった!

これは目から鱗でしたね。

確かに、子どもたちの遊びは大人の真似から始まっているように見えるし、早く大人や年長の子のようになりたいって思って一生懸命トライするものだった。

現代は、大人たちが子どもの遊びに介入することによって、ますます間違った方向に誘導してしまっているようです。

投稿者 yama : 2009年11月28日 22:46

yamaさんの言う様に、確かに、現代は大人も子供も一緒になってテレビゲームをし、それが「唯一の親子の繋がり」となってしまっている家庭もあるようです・・・;;

それに対し、最近見かける家族で参加できる農業体験の類では、都会では得ることの出来ない“仕事と遊びの繋がり”を体感できそうで、可能性を感じます☆

投稿者 mame : 2009年11月28日 23:57

遊びって動物の本能で、これがないと危ないのか危なくないのかも判断出来るじゃないのかなと思います。

楽しいから遊ぶの方向にいくから、
活力元になる。

今の現代は、あまりにも常識に囚われている気がします。
常識とか法律は、人間の本能を退化させているのではないでしょうか?

常識の裏の意図は、みんな同じの価値観
にさせることだと思います。
この常識以上なことすると、白い目で見られ
いじめになっていく。

その間違ったキーワードに誤魔化されないよう
に気をつけたいです。

投稿者 けん : 2009年11月29日 00:54

最近、キッザニアが人気ですよね。人工的な企画ものだとはいえ、子供にせよ大人にせよ、それが楽しいと感じたり体験させてみようと思うのは、

>必要なのは、子供も含めて、現実の課題を担える場
それがなければ、遊びが学習課題という機能も果たすことができない そういった場を再生させていくことこそ、遊びや学びもひっくるめた子供の教育において最も重要なことなのだと思います

といった事を奥底の方では感じていて、誰にも何とかしたいという思いが出てき始めているような気がします。

投稿者 wii : 2009年11月29日 02:18

黄色のタイは期待の証さん
コメントありがとうございます♪
 
子供の問題だけ、遊びの問題だけ、
では解決できないし、解決するには、それをみんなで考える場さえ作ることができれば解決できるんじゃないか、と思います!

投稿者 yamajun : 2009年11月30日 23:19

yamaさん、コメントありがとうございます!

>現代は、大人たちが子どもの遊びに介入することによって、ますます間違った方向に誘導してしまっているようです。

そうですね。
子供が大人を注視して、そうなりたいと思うのではなく、大人が子供に全てお膳立てして与える。

子供の教育どうする?は、個人の子供単位で考えても答えは出るはずもなく、
どんな社会をつくっていく?ということを考え、子供も社会の当事者となる仕組みを作っていくことなのではないかなぁと思います。

投稿者 匿名 : 2009年11月30日 23:28

mameさん、コメントありがとうございます!

TVゲームが唯一の共通課題。。。
なんか、ゲーム=バーチャルの世界って、現実味がまったくないですね。。

農業!
確かに可能性を感じますね♪
遊びも、学びも、現実の課題の中から見出してこそ、得るもの(=みんな・将来に役立てられるもの)がありそうです!

投稿者 yamajun : 2009年11月30日 23:33

けんさん、コメントありがとうございます♪

>楽しいから遊ぶの方向にいくから、活力元になる。

しばらく前から、学生や遊び盛りの子供から“なんか楽しいことない?”なんて声を聞くようになりました。

遊びなんて、枠にとらわれなければ、いくらでも作っていけるはずなのに、与えられることだけにしか意識が向かっていない証明ですね。

遊びも、学びも、仕事も、
突き詰めれば「生きる」ということ。

その本質である生きる意味=「みんなの役に立つ(種の存続)」のため、という意識を再生する必要があるなぁって思います。

投稿者 yamajun : 2009年11月30日 23:41

wiiさん、コメントありがとうございます☆

キッザニア、人気ですね。
確かに、みんなの中に遊びを再生したい、子供教育をなんとかしたいという欠乏は、顕在化してきているように感じます。

ただ、必要なのは、それぞれの枠(教育とか、子供とか)で答えは出せません。
だから、「これには、これ!」っていう特効薬はありません。(目先的になってしまい、根本解決に至りません。)

だからこそ、本当に解決するためには教育も
仕事も、政治も経済もひっくるめて「この社会どうする?」を考えていくことが必要ですね(*^^*)b

投稿者 yamajun : 2009年11月30日 23:49

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