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“遊び”の再生 ~「遊び」と「学習」「生産」が分断してるのなんで?~

みなさん、こんにちは~ :nihi:
前回 [1]前々回 [2]のブログでは、
“遊びが学習過程として重要である”という記事を紹介してきました

“遊び”とは、本能・共認回路を太く鍛え、実現回路を形成する訓練 子供たちは、“遊び”の中から生きていく上で必要なことを“学んで”いくのです :tikara:

しかしながら、実際にみなさんの周りを見渡してみるとどうでしょうか
「遊んでないで、勉強しなさい 」や「勉強と遊びのけじめが大事 」という言葉に代表されるように「遊び」と「学習」を分けて考える方が多いと思います

遊びは、遊び。学習は、学習。
実は、この意識こそが「遊び」も「学習」も、そのどちらをも劣化させているのではないでしょうか 🙁 ?
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◆「遊び」と「労働」・「学習」との対立

>「遊び」と、「労働」・「学習」とは、本来は対立しないものだが、時間的・空間的な制限から時と場合によっては、極めて厳しい対立を生むこともある。「遊び」の外的矛盾として、「労働」や「学習」との対立が考えられるのである。
もともと「学習」と「遊び」の出現は、「労働」から解放された時間ができたことと、密接な関係にあった。その後、「学習」が義務的になっていくなかで、「学習」が「労働」の方へシフトしていった。こうして、「遊び」は限られた時間を、「労働」・「学習」と分かち合うようになったのである。その分かち合いが時には対立となって、その時々の「遊び」のあり方を決めてきたのである。

◆本来、「遊び」と「学習」「労働」は対立しないもの。

>近代以前の、いわゆる伝統社会では、「遊び」と「仕事」の区別がなかったと、多くの文化人類学者が報告している。たとえば、岩田慶治氏は、北部ラオスの村で調査していたとき、おとなも子どもも朝早く川に水を汲みにいくのを見て、子どもにとっては重労働であるはずの水汲みを苦役というより、じつに楽しそうにやっていることから、仕事と遊びの境目がわからなかったと述べている。そして、「仕事と遊びの区別がつかないというのは、なにも北部ラオスの村々の特殊事情ではない。多かれ少くなかれ、それが伝統社会における仕事と労働のひとつの特徴だったのである。もちろん、水汲みと米つきだけの話ではないことはいうまでもない。竹籠づくりも、捕鳥のワナ掛けも、魚釣りも、畑仕事も、水田の作業だって、それにたずさわる村びとの気持ち次第で、また、その仕事、その行為にふくまれている風景の枠組み、画面の枠のとり方次第で、労働にもなり、遊びにもなったのである」(『人間・遊び・自然』日本放送出版協会)という。
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◆なぜ分断されていったのか?
上記の文章を読んでもわかるように、集団内での役割が明確であれば、遊びは労働の訓練となる。
「遊び」と「労働」の分断とは、「集団の解体(→集団課題の消失)」による「生殖」と「生産」の場の分断に他ならない。
もともと「生殖」も「生産」も包摂した集団課題としてあったものが、近代化によって農村から都市へと若者が流れ込み、村落共同体などの農村部の集団は悉く解体されてしまった 😥

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>市場の拡大に伴い、村落共同体は徐々に解体されてゆき、人々は都市において自由な=バラバラの個人として生きざるを得なくなる。これが個人主義浸透の物質的基盤となる。(また同時に貨幣の浸透に伴い、金があれば一人でも生きていけると言う基盤ができる、これも個人主義が浸透する物質的基盤となっていく) [3]

これまであった集団課題は消滅し、全てが“個人課題”へと成り果ててしまった。
そして、子供の育つ環境も大きく変化をせざるを得なくなった。

>世界中に普及した学校制度の導入により、子ども期は、遊びと勉強との区別を覚える、いいかえれば、身体の規律化や合理性を身につける期間となった。そこでは、遊びは、真面目な勉強の一時的な中断でしかなく、その領域を侵さない程度において容認されるか、あるいは勉強の役に立つ限りにおいて容認されるものでしかない。

こうして、「遊び」と「学習」は分断されてしまった

◆その結果どうなったか?
遊びは、主体的に充足する方法やみんなが楽しめる方法を実現するために創意・工夫をする中で発展していくものだったし、それが結果として、将来の仕事などの現実課題を突破する場面でも糧となり役に立った :tikara:

しかし、集団が解体され、集団課題がなくなり全てが個人課題となり、
子供にとって“遊び”が、時間的・場所的にも“与えられるもの”になってしまった・・ 😥
そうすると、子供たちはどうなってしまうのか

>子ども達が作る仲間世界の変化には別の現象もある。それが”遊び”の変化。昔は、子ども達の魚とりなど、子ども達自身が遊びを企画・計画していた。遊びを企画する能力があった。ところが80年代から、自分たちで遊びを企画する能力は衰弱し続け、ほとんどなくなっている。
>だからこそ、現代の子ども達は、ディズニーランドやカラオケなど、供給側から用意されたものに行くことしかできない。自分たちで遊びを企画する能力が既にない。
>これらの現象群は主体性(=外圧に立ち向かっていく能力)の衰弱→喪失を表しているのではないか?

主体性の喪失
遊びが、“生きてゆくために必要なことを学ぶ”ためのものから、
単なる“自分が楽しむだけ”“決められたものをこなすだけ”になってしまった

◆どうする??
遊びには、大人の真似、つまり“集団やみんなの役に立つ男(女)になるための訓練”という重要な側面がある。
しかし、現代は「生殖」と「生産」の場が分断されていて、子育てが生殖だけの場で行われる限り、生産の場で働く親や大人の姿(社会の役に立つ姿)をみることがない

最初のラオスの例でもわかるように、集団が解体される前は、大人も子供も同じように外圧を受けていたし、“こういう大人(男・女)になれば、みんなの役に立てる ”という“同化対象”が身近にたくさんいた
よって、実現イメージも湧きやすかったし、同化対象たちを真似していくことが“遊び”であり、“学び”でもあった :nihi:

必要なのは、子供も含めて、現実の課題を担える場
それがなければ、遊びが学習課題という機能も果たすことができない
そういった場を再生させていくことこそ、遊びや学びもひっくるめた子供の教育において最も重要なことなのだと思います :love:

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