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2009年11月17日

経済破局間近…家庭という枠を超えた問題をどうする!?-7~充足発の可能性探索へ、私権追求に代わる次の集団の目標を探る

シリーズ-4~前回まで、集団私権の衰弱過程を扱ってきました。

‘70年 豊かさの実現によって、国家私権が衰弱
【シリーズ-4~国家私権の時代(明治~1970年)とは何か?、企業私権の時代(1970~1995年)とは何か?】
            
‘95年 バブル崩壊から5年後、企業私権が衰弱
【シリーズ-5~企業私権の衰弱(1995年)と家族私権の時代(1995~2003年or2008年)】
            
03年 財政危機・環境危機・教育危機  or ‘08年世界金融危機を契機に、家族私権が衰弱
【シリーズ-6~~家族私権の衰弱と、その後?】

続いて、今回は、集団私権が衰弱し、残る個人の自我・私権はどうなるのか?封鎖できるのか? その可能性を扱っていきたいと思います。

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◇残る個人自我・私権はどうなる?

官僚・エリート、ネット右翼、モンスターペアレント、自己中やクレーマーなど、少数でありながら声高に自らの正義を振りかざし、相手に有無を言わさず要求や権利を突きつける人たち、それが残る個人自我・私権の姿。もはや誰も見向きもしなくなった旧世界(私権世界)にしがみついている「偽ニッチ」の住人です。共認収束・充足基調の大潮流が顕在化しつある現在、かれらは風前の灯・・・・と考えがちですが、そんなにすんなり消滅するわけではありません。

なぜなら、かれらは、

仲間非充足⇒否定の自我収束⇒それを正当化するため(共認原理に対立する)力の原理に立脚した少数派私権・反動勢力は、己を正当化する観念で観念武装する。

この正当化観念は旧観念=私権観念(自由・平等・権利・個人etc…)そのものであるが、現在は私権制度が残存している為、(旧観念の欺瞞性を暴く新観念群を持たない限り)これらの正当化観念・私権観念に対して、反論することは極めて困難である。

ex.ホリエモンは「お金で買えないものはない」、村上世彰は「お金を稼ぐのは悪いことですか!?」とマスコミを通してのたまったが、当時これに論理的に反論できた識者も素人も全くいなかった。

それゆえに、どれだけ共認収束・充足基調の大潮流が顕在化しても、制度が私権制度である限り、人々の共認圧力で、反動勢力(自我肥大)を封鎖することは不可能である。
一方で、社会の共認収束・充足基調の大潮流が顕在化すればするほど、反動勢力の「仲間非充足」は更に強まり、益々否定の自我収束→自我肥大が進む。そうなれば、暴走する社会が悪化するのは自明の理である。
共認収束・充足基調の大潮流は、次代=共認社会の可能性を開く、確かな可能性であるが、一方でその潮流が私権反動勢力をのさばらせ、社会を暴走→更なる閉塞へと陥れていくと言う、なんとも皮肉な状況となっている。

るいネット【「共認収束・充足基調の大潮流」と「私権・反動勢力の自我肥大」の関係性】


このように私権制度が残り続けている限り、常にスキあらば私益をと狙っている自我・私権派にとっては、共認収束・充足基調の大潮流の顕在化→私権圧力だけ低下したこの状況は、好きなだけ私権を手にいれることができるチャンスとなってしまうのです。

確かに、構造的には将来的には個人自我・私権は「絶滅」するはず。現在の私権制度も私権の衰弱と共に、ますます無意味なものとなり、誰の見向きもされなくなる。最終的には共認社会にとって必要な制度へと転換されていく。それをもって、完全絶滅・・・・ですが、
課題はそのスピード。経済破局を前に悠長なことは言っていられません。そのためには、「答え」の提示が必要で、そしてその中身の共認形成ができるかどうか!

◇答え、可能性はどこにある?~否定発から充足発の可能性探索への転換

「個人自我・私権がいつ消滅するか?」「自我を封鎖するには?」というような否定形の発想では行き詰ってしまい、むしろ、暴走する自我・私権派=偽ニッチの住人の思う壺! 
そこで、ここは発想の大転換です。「自我を封鎖するには?」というような「否定発」の問題の立て方ではなく、共認収束・充足基調の大潮流にのって、実現思考で「充足発」の可能性を探索してみます!

では、その可能性とは?

 もともと自我の発生は、遊牧という特殊な生産形態ゆえに芽生えた集団間の相対意識が基盤となり、乾燥化→縄張り意識△→ついに集団自我へ、のように「集団発」で生じたもの。つまり、個人発の自我が集団に蔓延したのではなく、まず集団自我(私権)が生まれ、それが個人に転写されたのが個人自我・私権。(【シリーズ-2~自我は複層社会の集団発】) そして、現在の個人自我・私権とは、国家→企業→家族という集団私権の衰弱の果てに残ったもの。

であれば、個人自我・私権自体を問題にするのではなく、最大の集団目標であった私権が崩壊した現在、私権追求に代わる集団の次の目標とは何か?の探索ベクトルに可能性があるはずです。

そして何より、【シリーズ-1~@人類の本性は共同性~】で扱ったように、

③自我を全面封鎖した共同体の中で人類の本性=共同性は育まれてきた
この様な状況下では自分勝手な振る舞いや仲間を否定する行為(自己中=自我)は、人類の命綱ともいえる共認充足を妨げ、集団の結束を破壊し、集団の存続を危うくする(ひいては個体の生存も危うくする)ため、徹底的に抑制・封印されてきた。つまり人類の本性は共認充足を中核とする共同性にあるともいえる。そのように自我(や私権)を全面封鎖した共同体の中で500万年に亙ってこの人類の本性は形成されてきたのだ。

この、個人の自我・私権は集団の共認より封鎖される、しかも、人類は500万年に亘ってそれを実現してきたという事実こそが今後の可能性なのです。

否定発から充足発の可能性探索への転換。その先に見える可能性は「集団」にありそうです。現在の、安定・充足基調の意識潮流自体、この転換の加速装置として働いてくるのではないでしょうか。

◇生産集団=企業の可能性

既に、企業私権(企業の自我)が衰弱したことは、【シリーズ-5】で展開されてきました。しかし、その一方で、次代に向け転換を始めている企業も出てきています。

可能性1:「周り(社内もお客も)⇒社会の充足」がこれからの目標

 モノが売れないこの時代に、『社会貢献』が売れている――。

 もちろん、社会貢献という名の商品があるわけではなくて、さまざまな社会問題の解決につながるモノやサービスが売れたり、NPOやNGOの活動を支援するチャリティ商品が売れているという意味だが、昨年のリーマン・ショック以降の世界同時大不況の中でも、これらの商品は売り上げを伸ばしている。

 社会貢献志向の消費行動を『ソーシャル消費』と呼ぶが、この消費トレンドは、若者とアラフォー女性を中心に、30代男性、そしてシニアを巻き込むメガ・トレンドになりつつある。

(中略)

 筆者の本業はマーケティングのコンサルティングで、つまり生活者の消費志向を分析するのが仕事なのだが、その経験から言っても、このトレンドは、従来のものとまったく意味合いが違う。

 従来の企業活動、すなわちマーケティングとは、基本的に“個人の欲望”をいかに刺激するかがテーマだった。美味しいモノが食べたい、いいクルマに乗りたい、大きなテレビが欲しい、カッコいいスーツが着たい――。そういった欲望を刺激し、肥大させ、消費を拡大させる。時代が変わろうが、新しい理論が出てこようが、基本的なベクトルはこれまでかわらなかった。

 しかし、今度の『ソーシャル消費』は違う。個人の欲望より“他人の幸福”のために商品を購入するという、従来のマーケティングの常識からすれば180度真逆の、「コペルニクス的大転換トレンド」なのである。

DIAMOND ONLINE【『社会貢献』を買う人たち】より
(るいネット【モノが売れないこの時代に、『社会貢献』が売れている】経由)


共認収束の大潮流に乗っかった、社内外を貫く目標=「周り(社内もお客も)⇒社会の充足」が企業の次の目標となりつつあるようです。まさに、これまでの自集団の第一の目標とは正反対、この意識転換を図った企業が活躍していく時代なのだと思います。

可能性2:企業による自給自足の挑戦

究極的には、
「最低限の食料の自給自足を達成する」
ことが出来れば素晴らしいと思っている。

企業農園を作って、社員持ち回り制で農作物を栽培管理して、
それを社員、及び、家族に分配して、
必要最低限の食料を自給自足的に確保したいと思っている。

また、都会生活をしながらでも、農作業に携わることで、
自然の恵みやありがたさ、逆に、難しさを体で覚えることも目的の1つである

さらに、社員が一丸となり農作業に従事することで、
「農」や「食」を通じて、一体感・連帯感も感じることが出来る。

一方、視点を変えて、経営者発想で言うと、

経済状況がもっと悪くなって、
仮に、給料を下げざるを得ない状況になっても、
必要最低限の食料を支給することで、社員の暮らしを安定させる、
いわゆる、“現物支給の体制を作る”ことでもある。

環境ビジネスコンサルタントのパイオニア!菊池功ブログ【「企業としての自給自足~エコライフを実践する~」】より
(るいネット【企業による自給自足の挑戦 ~船井総研の農業研修~】経由)


経済破局を前に、5年後、10年後を見据え、企業=生産、家庭=消費と分断するのではなく、それを一つの集団として一体化しようという、新たな取り組みですね。きっと社員全員が活力あるのだと思います。

可能性3:子育て・教育も集団の方が適している

1歳6ヶ月になる息子を見ていて最近強く感じるのは、「集団の中にいるほど成長が早い」と言うことです。
例えば、それまで全く歩けなかったのが親戚の集まる場で数日過ごす間に歩き始めた、「あーあー」などの喃語しか話せなかったのが急に語彙が増えて明確に意味をもった言葉を話し始めた、いろいろな道具を使えるようになった等です。

人間は、周囲に同化する中で成長していくので、同化対象が増えるほどに成長速度が早くなるのでしょう。周囲からの「成長期待」が多く掛けられることも、影響していると感じます。

このような現象事実を目の当たりにする中で、現在の核家族は「人間の成長の場」としても、問題があると感じ始めました。
核家族と言う”カタワな集団”の中では、同化対象は極めて限定的になるからです。
(略)
自然の摂理に則った集団の中で成長してきた先人達と、核家族と言う”カタワの集団”で成長してきた現代人を比較すると、相手の気持ちを理解したり、自然の移り変わりや状況を的確に捉える「同化能力」や「対象化能力」が低下しているのは疑いようがありませんが、観念能力に関しても(科学技術が現在のように発達していない中で、数々の工夫思考・実現思考で問題を突破してきた、先人達と現代人を比較すると)明らかに「能力低下している」と感じます。
観念能力は、共認機能=同化能力の上に構築されていくものなので、同化能力が低下すれば、必然的に観念能力も低下するのでしょう。

貧困の消滅と言う、生物史初の大転換に直面し、環境問題・経済問題を始めとする様々な未明課題に直面している人類。これからの人類には、これまで以上の同化能力・観念能力が必要とされていると言っても過言ではありません。

そう言う意味で、本源的な集団基盤を再生していくのは、行き詰まった性の再生だけでなく、真っ当な成長基盤の再生→同化能力・観念能力の再生を図っていく上でも、極めて重要な課題と言えそうです。

るいネット【人は集団の中で育つ】


核家族と言う”カタワな集団”ではなく、生産も生殖も内包する集団=共同体こそが、本来の「子育て=人を育てる」場なのかもしれません。

◆実現基盤は整いつつある、残る課題は何か?

私権企業や家庭というこれまでの集団の枠組みを超えた「生産集団=企業」に可能性が芽生えつつありそうです。社内外を貫く目標=「周り(社内もお客も)⇒社会の充足」とする集団では、もはや個人の自我・私権など邪魔になるだけしかなく、自ずと封印される可能性を秘めていそうです。

既に様々な企業で多様な試みが始まり、次第にその輪が広がりつつあります。
この流れをより大きくするには、今後何が必要で、何が課題なのでしょうか?・・・・次回に続きます。

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投稿者 sachiare : 2009年11月17日 List   

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コメント

充足発⇒可能性探索
これ、重要ですね!

自我に拘って、他人を否定しても何も得るものはない。

まさに、みんなで農業や子育てなど、うまくいくから可能性も感じる、そこに向かいたいですね!

投稿者 yamasho : 2009年11月19日 19:15

>可能性1:「周り(社内もお客も)⇒社会の充足」がこれからの目標~モノが売れないこの時代に、『社会貢献』が売れている――。

>可能性2:企業による自給自足の挑戦

やはり、変わっていけるのは、生産集団たる企業なのでしょう。生産集団である以上、必ず外圧に対応する必要が有る。そして、その対応の方向を間違えると、倒産も…。だから、これからの生き残りを賭けて、真剣に考えざるを得ない。

しかし、まだまだ一部の企業でしかない。スピードと言う観点で見ると、やはり先を見通すための「答え」が必要ですね。その答えを元に、どうする?

そしてその答えは、「類的市場の実現こそが最大の答え」にあるのだと思います。

投稿者 hajine : 2009年11月19日 22:17

>つまり、個人発の自我が集団に蔓延したのではなく、まず集団自我(私権)が生まれ、それが個人に転写されたのが個人自我・私権。そして、現在の個人自我・私権とは、国家→企業→家族という集団私権の衰弱の果てに残ったもの。

であれば、個人自我・私権自体を問題にするのではなく、最大の集団目標であった私権が崩壊した現在、私権追求に代わる集団の次の目標とは何か?の探索ベクトルに可能性があるはずです。<

これ、なるほど~って大きくうなづいちゃいました!!!残る個人自我にばかり目を向けてしまうと、肝心の可能性がくもってしまいますもんね☆

そして、可能性1~3に見られるように、集団の中にこそ可能性が生まれてきていることも、なるほどでした☆
充足も、生産基盤も、安心基盤も、全てを包摂した集団の中に全てはある。

ここの構築に、みんなで向かっていくことこそが課題なんだと思いました(^^)/

投稿者 たてこ : 2009年11月19日 22:52

>自我に拘って、他人を否定しても何も得るものはない。

共認収束・充足基調の潮流が顕在化しつつある現在では、「否定発」の志向では答えにたどり着くことは出来ないということなのでしょうね。「可能発」で追求していきましょう!

投稿者 さいこう : 2009年11月21日 01:12

「類的市場の実現こそが最大の答え。」、納得です。

生産様式が、工業生産から意識生産へと転換しつつある現在、意識生産の応じた働き方や生産の有り様を考えることが、新しい企業には必要なのですね。

投稿者 さいこう : 2009年11月21日 01:15

>そして、可能性1~3に見られるように、集団の中にこそ可能性が生まれてきていることも、なるほどでした☆
充足も、生産基盤も、安心基盤も、全てを包摂した集団の中に全てはある。

ほんと、その通りだと感じています。誰もが私権を求め、それまでの村落共同体から都会へ、共同体規範を否定して自分第一へ。結果、確かに豊かになったのに、心は貧しくなる一方・・・

否定して手に入れたものとは、結局は目先の答えでしかないのですね。失ったものの方が大きすぎます。

『充足も、生産基盤も、安心基盤も、全てを包摂した集団の中に全てはある』その実現可能性を探索していきたいですね。

投稿者 さいこう : 2009年11月21日 01:25

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