経済破局間近…家庭という枠を超えた問題をどうする!?-7~充足発の可能性探索へ、私権追求に代わる次の集団の目標を探る |
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2009年11月19日
「いい女って、何?いい男って、何?」~いい女は男たちをやる気にさせる!
なんでや露店は男女共認の場
(画像は「ルポルタージュなんで屋」さんからお借りしました)
先月10月22日の「なんでや劇場」では、経済破局を契機に進むであろう私権⇒共認、旧観念⇒新認識への転換に関し、以下のような提起がなされました。( 「日本を守るのに右も左もない」 より)
婚姻制度が社会の最基底部にあるのは、哺乳類では雌雄の引力が最大の引力(活力)であるからだが、全文明史を覆すほどの今回の社会の大転換も、男女の引力を基盤にした社会変革というスタイルになるのではなかろうか。
今回の変革の土台となるのは男女共認である。そして、男女共認の核となるのは、充足存在という女規範、闘争存在という男規範である。この男女規範を認め合うことが男女共認の原点(卵) である。∵女(男)だけが充足存在(闘争存在)と思っていても無意味。
また、路上のなんでや露店 でも、「いい女になるには?」や男の社会収束の潮流、あるいは企業の活性化での女の活力△(参考:リクルートの女性力 会社の「空気」は女で決まる!~みんながここで働きたいと願い、みんなが成果を出せる「会社の空気」をつくること~)など、男女の役割に関する問題意識が高まっています。
こうした流れを背景に、今回から8回に渡り、シリーズ「いい女って、何?いい男って、何?」について追求していきたいと思います。
続きを読む前に、応援よろしくお願いします~
まず、第1回目は「いい女って何?」です。
みなさんは「いい女って何?」と問われたら、どう答えますか?・・・笑顔?美人?スタイルが良い?明るい?気が利く?やさしい?おしとやか?清楚?・・・路上でもこの問いに対しては、個々人の主観に応じた様々な反応が帰ってきます。
・・・これは、豊かさの実現以来の時代変化に伴い「いい女規範」が衰弱してしまった結果であり、これからの時代に求められる「いい女」とは何か?に対する関心は非常に高まっていると感じます。
以下は「るいネット」 より
先日、なんで屋露店に来た女性二人組は何を言っても楽しそう。ニコニコ充足。それだけで店主も周りも楽しくなる。
しかし、そこで店主をやる気にさせた最大の活力源は、彼女たちの答え期待の圧力だった。なんでに答え始めると、待ってましたと言わんばかりに真剣に聞き始める。こちらも彼女らの期待に応えて答えを紡ぎ、彼女らもリアルタイムで評価(反応)する。羅針盤でもある。
「閉塞ってどんなん?」
(ガタガタ現象の事例を詳しく話してってことだな)
「この間、新聞に載ってたでしょ、国の借金700兆…」発する言葉も周りお客さんに同化し、疑問を代弁してくれる。一言でどんな答えを期待しているかが店主にも伝わる。阿吽の呼吸でどんどん共認充足は深まってゆく。
通行人も興味深げに覗き込んだり、時間がないのか名残惜しそうに立ち去る人もいた。こちらも自然と(立ち見のお客さんも含め)彼女たちに、もっといい女になって(男たちに闘争期待を加えて)と期待をかける。
脇では弟子が必死でメモを取ったり、ぶつぶつと復唱して覚えようとしている。女たちは彼にも優しい眼差しで期待を加えている。
蒸し暑さも忘れさせるほど、充足感があふれた場になった。思えば、’70年以降、女たちが社会進出し始めたのも、私権確保のためではなく、文字通り「社会」を統合しようとする男たちの傍で、闘争期待=答え期待を加え、共認充足を求め始めたからではないか。
共認充足を形成する媒体はいくつもある。人と人とがつながれば、それだけで共認空間になるとも言える。そこでの充足度は場を作る参加者の意識、活力に規定される。
なんで屋には男たちをやる気にさせる女がいる。その期待に押されて答えを出そうとする男がいる。だから、なんで屋は、他のどの媒体とも比較にならないほど魅力的なのだ。
「いい女」の条件①
男達に答え期待(闘争期待)の圧力をかけ、やる気にさせるのが、いい女!
そして、いい女は答えを評価する「羅針盤」ともなる。
平塚雷鳥
文中にある女性の社会進出といえば、女性解放運動で有名な明治~大正期の作家、平塚雷鳥の名前が思い浮かびますが、彼女が本来言いたかったことは、男女同権を求めるものでも、女性の権利を主張するものではなく、私権時代に抑圧されてきた女としての役割を、社会においてまっとうに果たしたいという思いであることが、彼女による婦人文芸誌「青鞜」創刊の辞の後半部に見ることができます。
『 ~前略~ 女子が男子と同等の教育の機会を与えられていない現状は残念ではあるが、致命的ではない。知識は真の智への手段の一つに過ぎない。学者であって真を見ること困難な盲者は、男性にも多い。無暗に男性を羨み、男性に真似て、彼等の歩んだ同じ道を少し遅れて歩もうとする女性を、私は見たくない。 ~中略~ 然らば私の希う真の自由とは解放とは何だろう。潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させる事に外ならぬ。 ~後略~ 』
この素直な女の社会的役割欠乏が権利要求運動へと歪曲されていったのは、欧米近代思想(個人主義、女権論~男女同権論etc.)の流入によるところが大きいと言わざるを得ません。
(「女性の社会進出」)
そして、もう一つ・・・
いい女って聞いて、先ずはでてくるのが、
「明るい女!」実際「明るい」ってどういうことだろう?(←これで悩んでいる事態、ちょっと暗い気がする・・・。)
みんなも認める「明るい女」の先輩に
「明るいってどういうことですか?」って聞いてみた。返って来た言葉は、
「安定感かな。」なるほど。
その先輩や、思い出せばお母さん。その人の心配ってしたことない。
いつもいてくれる。
「いつもいてくれてありがとう。」まさに、この言葉がぴったりの存在だ。みんなに充足をあたえ、太陽のような存在。
みんなに、安心感を与えられるような存在になりたいと、改めて思った。
「いい女」の条件②
いい女は、みんなに安心感を与えられる充足存在
・・・『元始、女性は実に太陽であった。』
これは、前出の雷鳥による「青鞜」創刊の辞に記された有名な文言です。
太陽のように自らの充足エンジンをもって周りを充たしてくれる・・・こうした充足存在であり続けるための条件について、次回は考えてみたいと思います。
<参考投稿>
【メルマガるい278】 “女”への期待が高まっている! [2008.03.18]
男と女の勢いの逆転?②
「男と女のナイショ話」 より
「いい女の条件」を男女8人で追求してみました!
投稿者 kota : 2009年11月19日 TweetList
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コメント
投稿者 垂心
’70年以降の時代は製造業が力を失い、物から心へと求めるものが変わってきた時代です。当時より女子力を重視してきた会社にリクルートがありました。この会社は「まさに人材が全て」の会社で、その人材を結びつけるのが、社内報というツールだったようです。
現在ならこれが社内ネットということになるでしょうか。
このように女子力が磨かれたのも「まさに人材が全て」ということだったからだと思います。
投稿者 tennsi21
kotaさん、お久し振りです。
>いい女は男たちをやる気にさせる!
確かにそうかもしれないですね。最近、無表情な人が多いなぁと思います。
>女性二人組は何を言っても楽しそう。ニコニコ充足。
警戒心があってが、こうにはならないですね。世の中充足の潮流がありそう。女性の充足と安心が社会状況を変えてゆくのだろうと思います。
投稿者 2310
平塚雷鳥の話は、驚きです。どちらかというと、男女同権として引用されているように思っていました。
>思えば、’70年以降、女たちが社会進出し始めたのも、私権確保のためではなく、文字通り「社会」を統合しようとする男たちの傍で、闘争期待=答え期待を加え、共認充足を求め始めたからではないか。
平塚雷鳥が主張したかった内容と、上記内容は、女性の社会進出は、女性としての役割を、果たしたいという思いが心底にあったという点では同じなのかなと思いました。一方で、70年以降の社会の流れ(例えば下記)を考えると、結局は、共認充足、役割充足を求めた動きにあると考えていいのでしょうか?もう少し考えて見たいとおもいます。
・若者の仲間収束(⇒いじめ)
・否定発の反体制・社会運動の衰弱
・資本権力第一→共認権力(マスコミ)第一
・’70’80年代の私権意識肥大
・人権・同権・自由の架空観念が蔓延、肥大化
投稿者 匿名
垂心さん、コメントありがとうございます。
女性の社会進出と言えば、反射的に男女同権論に基づく「自立」や「自己実現」が目的と捉えがちですが、深層では一対の独占関係に可能性が感じられず、新たな可能性を求めたのだと気付きました。
投稿者 kota
tennsi21さん、コメントありがとうございます
>このように女子力が磨かれたのも「まさに人材が全て」ということだったからだと思います。
心の充足を創出するのはまさに人そのものです。従って、生産力の主体を為すのは「人」ということになりますが、中でも移り変わりの激しい人々の意識を捉えるのが得意な女性や若者の力が、まさに必要になってくると思います。
投稿者 kota
2310さん、ご無沙汰です!
>最近、無表情な人が多いなぁと思います。
結局、充足や活力をより根底的に創出するのは男女間の期待圧力かもしれませんね。(外圧=内圧)
ところが、現在はそうした期待を掛け合う場も課題も失われ、全てが自分課題と化している。
また、男と女の役割規範も失われて久しい。
活力を再生するには、新しい男女役割共認の再生と、具体的に期待を掛け合う場の再生・・・企業や農村の共同体化ではないかと思います。
投稿者 o
>一方で、70年以降の社会の流れ(例えば下記)を考えると、結局は、共認充足、役割充足を求めた動きにあると考えていいのでしょうか?
>・若者の仲間収束(⇒いじめ)
⇒いじめも共認充足を得るための「課題」と捉えることができると思います。
>・否定発の反体制・社会運動の衰弱
⇒私権の衰弱によって現実に共認充足の可能性が開かれたことが根底にあると思います。
>・資本権力第一→共認権力(マスコミ)第一
⇒最近ではマスコミに代わってネットが台頭しつつありますが、これなんかはまさに共認原理への移行を現していますね。
>・’70’80年代の私権意識肥大
⇒厳密には貧困の消滅によって私権欠乏は下がったが、同時に序列原理が緩んだことにより「楽してカネを儲けたい」という意識が登場した結果だと思います。
>・人権・同権・自由の架空観念が蔓延、肥大化
⇒戦後共同体が破壊されたために現実の共認充足が失われた代償としてこれらの架空観念が蔓延・肥大化したのではないかと思います。
しかし、マスコミの衰退や、共認充足の可能性が開かれたことにより、こうした架空観念も本格的に衰退していくのではないかと思います。
投稿者 匿名
>思えば、’70年以降、女たちが社会進出し始めたのも、私権確保のためではなく、文字通り「社会」を統合しようとする男たちの傍で、闘争期待=答え期待を加え、共認充足を求め始めたからではないか。
女性の権利云々と装飾されて謳われていたけれど、多くの女性の潜在思念はこの様な想いだったのだと思います。
それを否定的で捉えていた世相に気が付かされました。
肯定的に捉えられないと可能性は見えてこないという良い例だと思います。