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2009年07月07日
日本は一つの大きな家族!
日本は、世界の諸外国に比べれば住みやすい国だということをよく耳にします。るいネットでも、次のような投稿を見つけました。
『アメリカからの老夫婦は、「少年の犯罪率が高くなった」などと語る加藤恭子氏に、こう答えた。「率のことはわからないわ。だけど私たちは日本にくると、全体が一つの大きな家族のような場所に来たと感じるの。」』
これを読んで、最近の日本は各家族や単身世帯が増え、根無し草な人が増えていて、当の日本人はなんとなく不安を感じているのに、外国人はそうは感じないのはなんでだろうか?と思いました。
新しい集団のあり方を考える上で、ちょっと立ち止まって考えてみたいと思います。
今回も読んでくれてありがとう
1.勤勉性
よく言われることですが、日本人は勤勉な国民です。これは近代に始まったものではなく、たとえば、江戸時代においても次のようなことがあります。
自分が食えなければよそから採ってくるという発想が日本人にはなくて、勤勉(創意工夫)によってなんとかしてきたのが日本人だったんですね。
では、この勤勉性が日本人の特性として総じて言えるのは、なぜなのでしょうか?
2.共同性
『天才がどんどん生まれてくる組織』(齋藤孝著)という本があります。この本では、「ハイレベルな基本技が全員によって共有されている組織は、驚くべき力を持つ」ということが書かれていて、強い集団の例として猿飛佐助の物語が紹介されています。
白土三平の『サスケ』は、天下が豊臣から徳川へと移行する混乱期に、両陣営の忍者同士が戦いあう。そうした状況の中で真田幸村の臣下である忍者のこども佐助が忍者として成長していく物語です。
この物語の中で、猿飛佐助は死んでもまた現れて家康を脅かします。実は、猿飛は何人もいて、猿飛というのは人の名ではなく術の名なのです。つまり、猿飛の術を使う者はすべて猿飛ということです。ということは、忍術の天才である猿飛佐助が何人もいることになります。これは集団として術を磨き、術(それも基本術)を共有しているということなのです。
佐助の話は物語ですが、このようにハイレベルな基本を共同で身に付けさせていた実例としては、江戸時代に各藩に設置された藩校や私塾(緒方洪庵の適塾や吉田松陰の松下村塾)などがあります。
日本と諸外国との大きな違いは、勤勉であり、かつ、個性第一ではなく共同で術を磨いてきた歴史があったということではないかと思います。
投稿者 shushu : 2009年07月07日 TweetList
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コメント
投稿者 ( ̄▽+ ̄)
>『天才がどんどん生まれてくる組織』(齋藤孝著)という本があります。この本では、「ハイレベルな基本技が全員によって共有されている組織は、驚くべき力を持つ」ということが書かれていて、
日本人の共同性って天才を生む構造だったのですね~みんなのことを考えるから天才になる!になるほどです。
ってことは、最近の子供の学力低下が言われているってことは、最近の子供ほど、自分主義なのかしら?
投稿者 びおふぇるみん
百年に一度の大不況の今こそ、『日本人の強み=存在基盤』を再確認したいところです。
今やどの集団も(外圧激変の中で)再構築に迫られていますが、その際に、その点を中心に据えて再構築する必要があり、その認識が重要になっていると思います。
戦後日本に輸入された個人主義によって、対象性の欠如をもたらし、自己中が蔓延しつつあります。つまり、内部崩壊の危機に晒されていると言っても過言ではありません。
しかし、一方で、そんなに簡単に(数十年やそこらで)、(数万年~数百万年もかけて蓄積してきた)共同性が失われるとも思えません。共同性の本質は、人類の持つ『共認機能』です。
共認機能(きょうにんきのう)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=400&t=6
共認機能に対する認識抜きに、新たな集団のあり方は語れません。根本から追究してみると、より深みが増すように思いました。
・それは、どのように生み出されてきたのか?
・そして、どのように発揮されてきたのか?(家庭で、学校で、企業で、国家で)
・そして、今後の可能性は?
投稿者 toya
日本人の勤勉性は、“みんなの期待に応える集団性”と言ってよいのでは?それがあるからこそ、技術も個人に留まらず、よいものほど普遍化されていった。
しかし、残念なことに、真逆の個人主義(みんなの期待を捨象した自分主義)に染脳され、そのよさは解体されつつある。
いま新しい集団のあり方を考えるとき、“個人主義”という集団解体のためのイデオロギーをどうにかしなければ、可能性は開かれません。
逆に、そのイデオロギーを乗り越えさえすれば、可能性は一気に開かれるということですね( ̄▽+ ̄)