全人教育って、なに?-7@「類塾」の具体的なカリキュラムの紹介 |
メイン
2009年07月05日
闘争と生殖を包摂した全的なる本源集団を実現するほど、密室家庭は淘汰される。
※上記は、99年に出版され、ベストセラーになった『なぜ,会社は変われないのか』の第2弾。当時学生で、部活の風土改革のために何度も読みました 😉
当ブログ『家庭を聖域にしてはいけない』は、聖域化した家庭における「教育機能の喪失」を問題の中心に据えています。(学力だけでなく規範の喪失→人類の敵である自己中の急増)
その根本的な突破口は、『闘争と生殖を包摂した全的なる本源集団の再生』です!なんと、それは家庭の改革を通じて、実現してゆくものではありません。むしろ、闘争圧力を受ける生産集団である企業(職場)に、分断された各種機能を統合してゆくことで、密室家庭は不要になり、消滅してゆく過程を経てゆくのです!
つまり、家庭をどうする?とその変革を考えても、目先の答えにしかならないということです。今必要なのは、企業(職場)をどう統合する?と考え、変革(意識改革⇔体制改革)を実現してゆくことだったのです!
いつも応援ありがとうございます
以下は、社会の根本的な改善を目指す『るいネット』からの引用です。
●家庭問題の本質:家庭の聖域化と教育機能の喪失
>市場拡大によって職場と家庭が分断され、かつ家庭が絶対不可侵の聖域となった(例えば、よく「企業が悪い」「学校が悪い」と糾弾されるが、「家庭が悪い」と糾弾されることは殆どない)ことによって、家庭には何の圧力も働かなくなり、その結果、家庭は子供を教育する資質をほぼ全面的に喪ってしまった。サラリーマン家庭が孕む教育不能という問題の深刻さは、当分の間は、まだ農家育ちの祖父母や両親が居たお陰で、顕在化してこなかった。しかし、農村から都市への大移動がほぼ終わった’70年以降、その致命的な欠陥が徐々に露呈され始め、とりわけ老人と共に農家時代の諸規範が家庭から消え去った’90年以降、若者たちの間に心の欠陥児が急増し、子供の精神破壊が恐ろしいスピードで進行中である。(肉体破壊・精神破壊と市場の拡大停止)
●根底の状況認識:貧困の消滅→私権の衰弱→私権統合の崩壊→統合不全
>家庭であれ、学校であれ、(もちろん企業であれ)、私権の獲得という目標に収束することによって統合されてきた集団は、貧困が消滅して私権への収束力が急速に衰弱したことによって、統合力を失い、ガタガタになってきた。今や、それら私権集団は閉塞するばかりであり、それらの集団の中で答えを求めても、そこには何の可能性も残されていない。(次代を読む)
●統合不全の突破口:闘争と生殖を包摂した全的なる本源集団
>企業を合議制の共同体に変革しさえすれば、三年以内に『自分たちの生きる場を自分たちの手で作ってゆく』ことの大切さを、皆が体得してゆくだろう。言い換えれば、共認と集団の大切さが体得されてゆくだろう。それは、長い間権力によって封鎖されてきた、人類本来の豊かな共認充足の再生に他ならない。しかし、それだけではなお不充分である。私権=権力を破棄し、真の共認集団を形成する為には、究極のところ性闘争を封鎖することが不可欠である。性闘争・自我闘争を封鎖しない限り、それを制圧する権力の共認が必要になる(注:社会主義国の失敗の究極の原因は、そこにある。つまり、恋愛や一対婚を無自覚に肯定したままでいたが故に、必然的に権力が必要になり、また必然的に市場社会へと移行していったのである)。共認集団の共認圧力(集団規範)の内部に性闘争(共認の破壊物)を封鎖することができて初めて、共認圧力が全的な活力源となる土壌(仕組み)が出来上がり、その枠組みの中で活力=共認充足を高める必要から、必然的に自我も封印されてゆくだろう。それは、闘争と生殖を包摂した全的なる本源集団の再生に他ならない。そして、それは人類を正常な自然の摂理の中に戻し、人類を精神破壊から救い、滅亡を回避する為に不可欠な道程である。(本源集団の再生)
★闘争圧力から分断され=聖域化した家庭を変えようと考えても意味がない。生活基盤をなす生産集団(企業・職場)から『闘争と生殖を包摂した全的なる本源集団』を実現しようと考え、実践してゆくことこそが、根本の突破口である!
ということで、家庭の残機能を包摂してゆく『新たな集団のあり方』について、今後より追求していきたいと考えいますので、よろしくお願いしまーす
最後に、果敢に変革を成し遂げてゆく企業を紹介して、終わりにします。ありがとうございました
⇒超企業・類グループの挑戦
投稿者 toya : 2009年07月05日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2009/07/867.html/trackback
コメント
投稿者 匿名
最近では、生殖課題に限れば母娘達で集う機会が増え、「みんなで子育て」を実践している事例は増えてきているように思いますが、企業(生産集団)との距離は依然遠いままですね。
しかし、仕事と生殖の両立は、男と女の役割規範を再生する上で最も規定的な土壌になると共に、相互期待を高める最適な仕組みではないかと想います。
>家庭の残機能
という表現は、なるほど、でした。
投稿者 かわい
コメントありがとうございます。
そうなんですよね。大家族と言われていたころは、家庭には、教育機能を中心に、様々な社会的機能を発揮していました。しかし、市場拡大とともに、核家族へと分断され、さらに縮小し、とことん無能になっていると考えられます。
1人世帯が多勢になっている現状、この流れは不可逆的であり、家庭の再生よりも、むしろ生産集団である企業からの集団再生の方が可能性があるんじゃないかと思いました。
投稿者 toya
かつては、生産基盤が全てを包摂していた。
文字通り“生を生む”=生殖も入る。
人材育成も子育ても通じるものがある。
近代において、生産(企業)と消費(家庭)に分断され、特に消費一辺倒に成り下がった“家庭”が問題視されているが、企業においても“利益”を生み出すことに傾倒しすぎているのではないだろうか?
多くの企業が、生産基盤=生活そのもの=安心基盤に成り得ていないことが問題なのではないだろうか?
投稿者 にっしん
にっしんさん、コメントありがとうございます。
>多くの企業が、生産基盤=生活そのもの=安心基盤に成り得ていないことが問題なのではないだろうか?
確かにそうだと思います。家庭と企業を両輪で追究する必要がありますね。
職場と家庭の分離は、闘争課題と生殖課題の分離であり、安心基盤は家庭にのみ求められてきましたが、’90年にバルブが崩壊し、私権(地位やお金の価値)が急速に衰弱したことによって、若者の会社選びの基準が、給与や知名度ではなく、『雰囲気の良さ』になりました。それは、私権闘争(個間闘争)の殺伐とした雰囲気とは違う、『仲間充足の得られる雰囲気』、つまり、企業にも『安心基盤』が求められるようになってきたのだと言えます。(一方、同時期に、家庭においても、仲の良い友達親子や反抗期がなくなったなど、新しい充足基調が登場していますね。)
このように、私権が衰弱し、意識潮流の底流に、充足基調⇒本源収束(仲間充足・共認充足)が顕在化していますが、それに十分適応できていないと、確かに感じますね。
次は、そのあたり(集団に安心基盤を作るには?)を追究してみたいと思います。
投稿者 toya
家庭の残機能=生殖と子育てということでしょうか?
それを包摂した、「新たな集団」は確かに気になるところです。ただそれをいきなり生産集団である企業から実現するというのは、いささか飛躍している感があります。
(にっしんさんの意見に同意です。)
やはり企業は多かれ少なかれ、利益追求を第一とする側面が多くみられますので・・・・。
逆にそのような企業の中で、「新たな集団」を実現するためには、どのような転換が必要なのでしょうか?
投稿者 DDD
DDDさん、コメントありがとうございます。
家庭の残機能は、今や「(乳幼児期の)子育て」だけと言っても過言ではありません。なぜなら、そこだけが体制化or市場化されていない領域ですからね。(現況は、恋愛結婚→セックスレスの蔓延⇒性捨象/子育ても機能不全→乳幼児期の悲しい事件の増加⇒どうする?)
そういう意味では、利益第一であっても、その利益を生み出す社員(特に女性)の活力や帰属意識の向上のために、『企業内保育』を行っている企業は出現していますから、そんなに飛躍してはいないかな?(そういう企業は、もはや利益第一とは言えないのかもしれませんが…)
当然、企業側にも壁はありますから、そこを明らかにしつつ、両輪で可能性を追究していく必要があると考えています。
>逆にそのような企業の中で、「新たな集団」を実現するためには、どのような転換が必要なのでしょうか?
次稿をお楽しみに^~^☆
投稿者 toya
たしかに、現代の家庭では、課題といえば、子育てぐらいのものでしょうか・・・。むしろ仕事(企業)と、生殖(家庭)は分断されているものが当然と思っていましたが。感覚的には賛同できる部分ではありますので、今後の議論が楽しみです。