婚姻史シリーズ(7) 妻問婚は集団婚だったのでは? |
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2008年12月21日
婚姻史シリーズ(8) 母系制婚姻様式 婿取婚の起こり
妻問婚の次に登場したのが婿取婚。そのはじまりは平安時代頃まで遡るようです。
中央は藤原氏が中心の摂関政治、地方は縄文・弥生から続く庶民たちが農民となっていましたが、その後の支配階級となる武家が登場しはじめるなど社会状況が大きく変化し、婚姻様式も変化し始めていたようです。
今回は、婿取婚が登場し始めた頃の様子を紐解いて見ます。
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●婿取婚の起こり…平安中期 ※以下<リンク>参考
婿取婚は、妻問婚で通ってきた男を、妻方の生活体に組み入れようとするところから起こるもので、男の妻方への住みの固定化といえる。婿取婚は、妻屋側からの婿への労働力の需要によるとされ、荘園制社会では、生産力の増大とともに、男の労働力が要求された。長者層では、その地域の各戸の小世帯を崩壊させて自家の下人化したり、自家の娘や下人らの娘に通ってくる婿を住みつかせたと考えられる。
長者とは、大化以前の族長などの地方の支配階層であった者が、大化後も国・郡の役人や名主など地方の支配層にあった者で、中央の公家階級と繋がりを保ちながら、後に武家になっていった階層です。
生産力を増強させるために婿取婚が広がりましたが、彼らは近在の下層民との婚姻を避けて同格の有力者との間での婚姻を望みました。近在に有力者が居ない場合は遠方との間で婿取りを行い、また、中央から出張してくる公家や武将から「種もらい」という形で婿取りをして、婿の出自を名乗ることで勢力拡大を図ることもあったようです。
●母系制の中でのあいまいな婚姻制
婿取婚が広がり始めていましたが、昔から続く多妻多夫の婚姻制も並存していました。同時的多夫婚(重婚)や再婚もあるし、無宣告離婚だから離婚なのか一時的中断なのかもあいまいで、姦通も含めてあいまいな状態のまま受け入れられていました。ある意味、実におおらかな婚姻制だったといえます。
●女と男は同等の財産権
娘に住居付きの財産を残すのが一般的で、夫とは別個に、荘園や本所の領家である妻もいたし、鎌倉期になっても、夫とは別個に地頭や名主であった女性もいました。
●武家の台頭による階層分化と婚姻制度の分化 ※以下<リンク>参考
平安末期以降、長者層は武家化し、武力を結集するために父系一族の結束を高める方向へと向い、婚姻制度も嫁入り婚へと変化してゆきました。
一方、下層民(庶民)は、部落共同体をつくり、部落内での若者組の群婚、無儀式の妻問婚、寄合世帯等、多種多様の部落内婚がおこなわれました。そして、これらの部落内婚は、明治・大正ごろまで残存しました。
明治期の文明開化・富国強兵政策、市場の拡大によって武家由来の嫁取り婚が庶民にも広がり始めましたが、決定打は第二次大戦後にアメリカ流の個人主義と一緒になって父系制の一対婚が国民全体に広がったことでした。
改めて振り返ると、日本における父系制一対婚の歴史はごく浅い ことが明らかです。
実態的には、既に一対婚家庭は風前の灯火のようでもあるし、これからの社会にどんな婚姻制度が適しているのか、少し頭を柔らかくして考えてみれば何か見えてきそうな気がします。
byわっと
投稿者 wyama : 2008年12月21日 TweetList
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