婚姻史シリーズ(3) 母系制婚姻様式3~交叉婚~ |
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2008年12月08日
婚姻史シリーズ(4) 母系制婚姻様式4~妻問婚~
妻問婚とは、母系制社会の民族に多く見られる婚姻形態で、日本でも縄文時代から弥生時代へ移り変わる時期に見られたようです。夫は妻と同居しておらず、夜になると妻の元へ通うというスタイルからこのように呼ばれ、子供は母親の一族として養育され、財産は娘が相続し夫には財産権が無いというのが特徴だそうです。
・・・と言われても、現在の結婚のイメージには程遠いですね。もう少し突っ込んでみましょう。
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妻問婚のイメージについては、ブログ「知られざる人類婚姻史と共同体社会」に紹介されていましたので引用します。
「奈良時代の家族構成(妻問婚と夜這い)」
1、鹿児島県へ旅行に行った時、同僚が鹿児島特産の「柘植の櫛」を買っていました。そこで、私は、何故、鹿児島では柘植の製品が特産になったのか、調べてみました。
2、鹿児島では女の子が誕生すると、庭に柘植を植えます。その女の子が年頃になり、結婚が決まると、その柘植の木を切り、嫁入り道具にします。そんな風な話を聞いたことがあります。
3、大学時代、鹿児島から来た同期生がこんな話をしてくれました。
戦前のことです。柘植の木がある程度大きくなると、そこの女の子が適齢期に達したということが誰にでも分かるようになっています。その女の子を好きな男の子は、夜になると、その柘植の木の植わっている庭に、木の棒を突き立てて帰ってくるといいます。
女の子は、それを見ていて、その男の子が好きな時は、その棒を家の中に入れておきます。次の夜、男の子がやってきて、木の棒が無ければ、自分の意思が受け入れられたと思い、女の子の部屋に入っていくといいます。4、木の棒を使ってお互い呼び合い(ヨバイ)、こうして妻問婚が成立するのです。
5、男の子が好きでない場合、次の夜も、男の子は木の棒を立てて、家に帰ります。毎日毎日繰り返し、100本木の棒が立った場合、男宿の連中が女の子をさらって、結婚をさせるといいます。昔から伝わる合理的な制度です。
これからわかるように、妻問婚とは個別婚(私婚)に近いものを感じます。日本ではそれまで集団婚(群婚)であったものが個別婚へと変化するという、大きな転換が起こっていますが、どんな理由があったのでしょうか?またまた、ブログ「知られざる人類婚姻史と共同体社会」からの引用です。
紀元前3世紀:自然物採集 →水田農耕が始る
紀元前2世紀:漢の武帝の時代、朝鮮は楽浪郡など4群があり日本(100余国)にも接触
3世紀 :「ヤマト女王国」
約600年の弥生時代では稲作が始まリ、大陸では漢の時代・朝鮮は楽浪郡など日本とも接触が発生していた。幾つもの大きな集団が発生して、遂には統合されたヤマト女王国が出来る。外圧などの変化はどうだったのでしょうか
生産様式が変化 自然物採取 → 農耕段階へ
社会関係が変化 氏族集団 → 部族連合(氏族の集合体)が100余
弥生初期の婚姻制は、ある集団が相手の集団の男女と神前で集団で交じ合うと言う、族外婚(クナド婚)でしたが、その中に「神前婚約」が発生します。婚姻様式も変化 神前集団婚 → 神前婚約(妻問婚形態の個別婚)の発生
(クナド婚)
なるほど、大きく変わったのは渡来人によってもたらされた社会状況の変化といえそうです。それまでの日本は集団婚しかなかったと考えられますから、神前という概念や個別婚という婚姻様式は渡来人が持ち込んだものではないのか???という仮説が考えられるのです。
だとすれば、この婚姻様式が果たして大衆に受け入れられたのかどうかが気になるところです。婚姻様式はさらに変化していきますが、その点を踏まえて追及していきたいと思います。
投稿者 hiroaki : 2008年12月08日 TweetList
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