婚姻史シリーズ(4) 母系制婚姻様式4~妻問婚~ |
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2008年12月09日
婚姻史シリーズ(5) 母系制婚姻様式5~日本は明治維新までは婿入り婚が主流~
吉日を選んだ婿入り婚が普通でしたトサ
※こちらからお借りしました
人類の婚姻史を見ると、母系制の婚姻制度の中で、父系制に移行してゆく手前の段階のものとして婿入り婚がありました。
漁猟・採取部族系統のものと、狩猟・牧畜部族系統のものがあるようです。
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概ね、漁猟・採取部族系統と狩猟・牧畜部族系統での婚姻様式の変遷は以下のようでした。
<リンクより引用>
■漁猟・採取部族系統
ボス集中婚姻→(外圧低下により)全員婚→(人口増加で集団分割)兄妹婚[氏族内全員婚]→(氏族の独立性を抑制)通婚→交叉婚(息子移籍)=婿入り婚■狩猟・牧畜部族系統
ボス集中婚→(外圧低下の度合いが小さい)上位集中婚→(人口増加で集団分割)上位集中型婿入り婚(母系制)
それぞれの系統の婿入り婚の様子を、実例から見てみます。
<リンクより引用>
●交叉婚、勇士婚とも母系だが、全男子が全女子と通婚する兄妹婚→交叉婚(氏族の異なる男女の組み合わせで移籍なし)の系統か、
首雄(族長)やその資格を一段下に拡張した勇士のみが、全女子と通婚する首雄集中婚→勇士集中婚(勇士婿入り婚)の系統かで、異なる。■北アメリカインディアン(セネカ・イロコイ族)の婿入り婚…狩猟部族系統の勇士婿入り婚
・男子がある家族の長女と結婚した場合、彼は慣習によって、彼女の妹たちが婚期に達したときに、彼女たちすべてを妻となすべき権利を与えられた。
・古い共同長屋に住んでいるときは、ある一氏族が優位を占めており(通常女子の側が家を支配した)、女子は他氏族から夫を迎えた。
貯蔵品は共有であったが、その供給の分担を働き得ない不運な夫にはわざわいである。子供がいかに多かろうと、また彼が家にどれほどの物資を持っていたにしろ、彼はいつでもその毛布と毛皮を手に入れるように命じられる。このように命ぜられた以上、その命令に背こうとすると家に居られない。叔母や祖母の取り成しで救済されない限り、彼は自己の氏族に帰らねばならない。
<リンクより引用>
■ニューギニア・トロブリアン島の交叉婚…漁猟・採取部族系統
男女関係について。性交渉に束縛はなく、幼い頃から性的遊戯にふけり、女は6~8歳、男は10~12歳から本格的性生活を始める。思春期になると兄弟と姉妹は別居、男子は独身の男に預けられ、女子は未亡人または母方の親戚の家に移される。この時期になると遊戯から脱して、セックスに情熱を傾けるが、恋人同士でも貞節は要求されない。若者はデートのたびに娘に贈り物をすることが義務。さらに成長すると、継続的情事の相手と、そのために作られた「若者の家」で結婚前の同棲生活を始め、セックスもかなり排他的になる。結婚を承認するのは娘の母親の兄弟で、男の家族には口を挟む権利はない。婚姻の際は、妻が贈り物(持参金)を夫に渡し、夫の両親のもとでしばらく生活するが、その後独立。妻の実家が永続的な経済的な義務を負う。
世界史的にみると、生産様式によって以上のような違いが見られるようですが、日本の婚姻様式はどうだったでしょうか?
<リンクより引用>
■ルイス・フロイスの見た日欧の女性比較より(戦国時代)
・ヨーロッパでは未婚の女性の最高の栄誉と尊さは貞操であり、またその純潔がおかされない貞潔さである。日本の女性は処女の純潔を少しも重んじない。それを欠いても名誉も失わなければ、結婚もできる。
・ヨーロッパでは夫が前、妻が後ろになって歩く。日本では夫が後ろ、妻が前を歩く。
・ヨーロッパでは財産は夫婦の間で共有である。日本では各人が自分の分を所有している。時には妻が夫に高利で貸し付ける。
・ヨーロッパでは妻を離別することは最大の不名誉である。日本では意のままにいつでも離別する。妻はそのことによって、名誉も失わないし、又結婚もできる。
・ヨーロッパでは夫が妻を離別するのが普通である。日本ではしばしば妻が夫を離別する。
・ヨーロッパでは娘や処女を閉じこめておく事は極めて大事なことで厳格に行われる。日本では娘たちは両親に断りもしないで一日でも数日でも、一人で好きなところへ出かける。
・ヨーロッパでは妻は夫の許可がなくては、家から外へでない。日本の女性は夫に知らせず、好きなところに行く自由を持っている。…日本において古来より婚姻は婿入り婚と呼ばれる方式がとられていたようです。この婚姻方法がすべての身分に通用するかどうかは分かりませんが通常は男性が女性の家に通い女性に気に入られればその家に入り婿となります。現在とは逆の方法が採られていたようです。したがって結婚が成立するまでの女性は自宅で男性の来訪を待ちそれも相手は一人だけの場合は珍しく複数相手の場合の方が一般的であったようです。一方男性も訪ねる家が一軒だけでは不安であり、数人の女性の家を回っていたと解するのは常識でしよう。このような状態、すなわち婿入り婚の様式からルイス・フロイスの見たような男女関係ができあがってゆきました。
かの柳田國男氏などによる見解では以下のようです。<リンクより引用>
■平民(一般常民)の結婚 婿入り婚
柳田国男の「明治大正史」によると,明治のはじめまでは、一般庶民は「婿入り婚」が多かったとかかれています。婿入り婚とは,男性が女性の家に通う形式です。一定期間,妻となる女性の家に通います。そして男性の家に 「嫁入り」するのは,男性の母親が家事の一切の権利を譲るときです。従って,嫁入りまでに長い時間がかかることが多かったようで,当然何人かの子供を連れての嫁入りも珍しくありません。婿入りは,一定のルールの下に女性の家を訪ねます。女性は拒否することもできます。おおらかな環境だったようで、現在のわれわれの価値観では理解しにくい面が多いと思います。丁度,16世紀にフロイスが感じたものと同じような印象を私たちも当時の慣習に抱いてしまいがちです。
お互いの気持が合意に達すれば,男性が通うようになります。従って,お互いに歩いて通えるような距離にすむ間柄で,村内婚とも呼ばれていました。■武士の結婚 嫁入り婚
武士は人口構成比で言えば全体の六㌫ですが、現在の婚姻の文化に与えている影響を与えています。武士の礼法が基本になっています。武士の階級では「家」を継承するために婚姻を結びます。男子でなければ家督を相続できませんから、男子が生まれるまで子供を産みます。一人の女性では嫡子を確保するのに不安がありますから、複数の女性を側室として抱えます。それは家を守るための防衛手段です。フロイスがおかしな結婚と指摘した結婚のひとつは、このような武士の多妻婚だったのです。武士以外にも裕福な人達は家を守るために側室を持つことが普通でした。
武士は「嫁入り」という婚姻の形式をとっていました。これは、女性が男性の家に嫁ぐもので現在と同じよう処女に近い形(一般常民は、既に男女間の性交があり子供があって嫁入りをしていたのと比較して。)のものです。
武士の婚姻のしきたりを定めたものに、小笠原礼法というものがあります。これは室町時代から武士の家を守るためのおつきあいのマニュアルという性質のものです。身分の高い武士同士の縁組は遠方からのものが多くなります。両家を取り持ち、さまざまな問題を調整するために仲人の制度もありました。
以上のように、明治維新後、政府の政策などによって西欧流の一対婚による嫁入り婚が一般化されるまでは、日本では婿入り婚が主流でした。
現代で言えば、婿養子ということになりますが、社会集団相互のルールとして決まりがあった点が大きく違うところです。
明治政府の主導で、戸籍制度や家父長権の制定などによって嫁入り婚へと徐々に変わってゆき、第2次大戦の敗戦後アメリカ流の価値観が導入されて一気に変わりましたが、50年程度を経てまた変化する兆しが出てきているのは興味深いところだと思います。
by わっと
投稿者 wyama : 2008年12月09日 TweetList
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