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2008年11月27日

学校ってどうなってるの?86~次代の“教典”とは?⇒『構造認識』の必要

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皆で構造認識を追求する場・・・『なんでや劇場』by類グループ

学校ってどうなってるの?82/83/84では、明治以降の市場拡大の流れの中で失われてしまった「同化能力」を再生するために有効な思考法として、「なんで思考」「仮説思考」「実現思考」「図解化」 による思考について考え、85では「新たな教典(グランドセオリー)の必要性」 について提起しました。

それらを受け、今回は
学校ってどうなってるの?69~「学力低下をどうする?!」第三弾!
で展開している新たな教典・・・「構造認識(新理論)」=「実現論」 についてです。

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未だ学力低下過程に入る以前の江戸時代に言語能力(本質は「同化能力」)の高さを維持できた理由の一つに、“周り”という「同化対象」 が明確に存在していたということがありますが、もう一つ重要な観点として、当時は「同化対象としての教科書=“教典”」 が存在していました。

その代表的なものが中国春秋時代の思想家・孔子と弟子のやり取りを元にした 「論語」ですが、私権時代を生き延びるための根本規範として長い年月をかけ、多くの人々の手によってまとめ上げられたことにより、誰もが同化できる“教典”として確立され、日本においても主に武士階級の教科書として用いられました。(・・・暗唱できるほど皆でひたすら音読し同化=肉体化した。)

しかし、これはあくまでも生存圧力(=飢えの圧力)を背景とした私権時代の規範であるために、貧困が消滅した現代においては、有効な同化対象足りえません・・・つまり、同化すべき“教典”を失ってしまったことも、今日の学力低下の本質的な理由の一つであると
言うことができます。

では、現在求められる“教典”=グランド・セオリーとはどのようなものなのでしょうか?

■新たな時代の“教典”とは?⇒『構造認識』の必要

「論語」がそうであるように、“教典”とは、ひたすら同化することで、その時代の課題や外圧に適応できることが条件となります。
ならば、現在皆が直面している課題・外圧とは何なのか?そして、それに対する突破口足りうる“教典”とは?(以下は 「るいネット」 より)

「観念捨象の実践模索では足りない=観念を必要とする地平」

●直撃圧力を超えたor社会構造に起因する危機・課題は、構造認識によってしか把めない。肉体危機(飢えetc)や精神破壊は、潜在思念(感応回路)でも把める。しかし、社会構造に起因する危機・課題(観念閉塞や経済破局や環境破壊etc)は、構造認識によってしか把めない。たとえ潜在思念が感取したとしても不鮮明であり、危機・課題を明確化し、解決する為には構造観念が不可欠である。

社会は、体感共認(の空間的限界)を超えることのできる観念共認によってしか、統合できない。社会の問題(危機・課題)を把握⇒解決し、あるいは社会を変革⇒統合する為には、人類と社会の形成過程や存在構造(原理や法則)の解明⇒構造認識が不可欠である。
また、構造認識とは、論理の整合する事実認識に他ならない。従って、誰もが認めることのできる認識であり、この事実の共認によって、はじめて社会の共認統合が可能になる。(注:感応観念は地域や利害によって異なるので、社会を統合できない。)

∴社会の問題を解決し、社会を統合するには、人類と社会についての構造認識(⇔事実の認識)が必要である。

「新しい潮流8 現実を対象化するための概念装置」   

しかし、人々の意識(本源収束・社会収束)を直視し対象化するには、切開する概念装置が必要である。現状、潜在思念は現実を対象化して深い所で何かを感じているが、極めて不鮮明なまま潜在していて、顕在化してこない。
この潜在思念の感じる不鮮明な可能性を顕在化させたものが、パラダイム転換論や史的構造論etcの答えである。
これらの答え=構造認識は、潜在思潜在思念の感じる不鮮明な可能性を顕在化させたものが、パラダイム転換論や史的構造論etcの答えである。念の実現観念態であると同時に、潜在思念が現実を対象化する(=更なる可能性を模索する)概念装置でもある。
従って、答え=構造認識を共認できれば、可能性も⇒答え欠乏も(⇒更なる探求も)全てが顕在化してくる筈であり、又、その構造認識それ自体が現実(≒意識)を対象化してゆく概念装置ともなる。(逆に、答え=構造認識を共認できなければ、可能性も答え欠乏も、潜在したままで顕在化しない。)

つまり・・・

①肉体危機や精神破壊を超越した社会構造に起因する危機・課題は、構造認識(観念)によってしか掴めない。
②体感共認を超えた社会を共認統合するには、人類と社会の形成過程や存在構造(原理・法則)を解明した構造認識(観念)が不可欠。
③潜在思念(心・体)が感じている可能性や答え欠乏を顕在化させるには構造認識は不可欠。
 

■『構造認識』とは?~旧い認識群=「価値観念」との違い

  
 「大転換期の予感と事実の追求」  

人々は、これまで無数の常識(規範とか観念。現在もっとも支配的な観念は、自由とか個人とか人権だと云って良いでしょう)に則って家庭生活を営み、あるいは経済生活を営んできました。しかしその結果が、先進国における全面的な行き詰まり(世界バブル・財政破綻・環境破壊・精神破壊)であり、崩壊の危機であるとすれば、それらを導いてきた常識群の根幹部が(従って、大部分の常識が)根本的に間違っているからだと考えるしかありません。おそらく人類は今、全文明史を覆すほどの大転換期に入ったのではないでしょうか。

この場に参加されている多くの方々も、現代社会の行き詰まりと大転換の予感があるからこそ、現代の支配観念に根本的な疑問の目を向け、できる限り固定観念を捨てて、現実を直視し、事実の追求に向かおうとしているのだと思います。まして、全文明史を覆すほどの大転換期だとすれば、歴史を遡って原始人類やサル社会や生物原理にまで目を向ける必要も出てくると思われます。しかし、それらは大部分が未明の領域であり、その解明の為には、固定観念に囚われることなく事実を素直に認める柔軟な頭と、大胆な仮説の提起が何よりも大切になります。

その場合、例えどんな仮説であっても、皆の知っている限りの知識に照らし合わせて論理整合していれば、私はその仮説をいったん事実として認めます。もちろん、いったん認めた事実に反する現象事実が出てくれば、皆さんと共に速やかにその現象事実を組み込んで論理=構造事実を組み替えてゆきます。この様にして、(自由・個人・人権etcの固定観念を捨てて自在に思考することさえできれば、)事実の認識体系は無限に進化してゆくことができる筈だと考えています。

「旧観念と新しい概念装置の決定的違い」   

旧観念=近代思想と私権規範は、ともに価値観念である。つまりそれらは人間のあるべき姿や目標を観念化したものであり、頭の中を価値意識や目標意識で統合するためのみに存在する。だからこそそれを受容する際には「共鳴」が不可欠である。逆に共鳴できなければ価値対立or無視される。(しかし、いくら「共鳴」しようともそれらは状況を把握するのにも、実際に物事を実現する際にも一切使えない。)

それに対して新概念は全く性格が違う。それはいずれも人間や社会の基礎的な仕組み(構造)を摘出し概念化したものである。(収束と統合、不全と解脱、共認機能etc.)その意味では自然科学の諸概念や物理法則と同様のものである。
だから新概念には旧観念的な意味での「答え」はない。それは答え=実践方針を発掘していく「道具」なのである。
そこで必要なことは「共鳴すること」では無く、深く着実に「理解すること」である。そして構造概念であるがゆえに、ある程度全体(基礎概念とそれに付随する認識)を理解し、身に着けてもらって始めて現実に適用していける。(時間はかかるが、一旦身に付ければ分析や方針化に着実に効力を発揮する)

 

つまり・・・

①旧観念=近代思想は、単に(私権時代において)「こうあるべき」と、あらかじめ決めた理想を唱えている“価値”観念にすぎず、現代のような新たな状況変化には全く対応できないばかりか、固定観念化し障害物となる。
②逆に、構造認識はこうした固定観念を捨て、現実を直視し、柔軟な「仮説思考」(論理整合が命)によって構築される。
③“生存圧力の消滅”という前文明史を覆すどころか生物史上初めてのパラダイム転換期に対応するため、原始人類やサル社会、生物原理にまだ遡って追求する必要がある。
④事実に基づく論理整合性こそ命であり、新たに抽出される事実群を組み込み無限に進化してゆく事実の認識体系。
⑤誰かに一方的に「答え」を与えられるのではなく、皆で作り出していくことで進化する。
 

・・・つづく

投稿者 kota : 2008年11月27日 List   

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