恋愛は、市場そのもの |
メイン
2008年10月29日
学校ってどうなってるの?82…”なんで思考”こそが思考能力復活の鍵
画像はしましまミトンさん、劇団はてなボックスさん のサイトよりお借りしました。
学校ってどうなってるの?73~「活字」から「映像」へ→同化能力衰弱
学校ってどうなってるの?75 規範圧力の低下+貧困圧力の低下=同化圧力の低下⇒次なる圧力は?
学校ってどうなってるの?76 個人主義の拡大に伴う同化対象の喪失
・・・・・・の流れの中で、同化対象を失い、同化能力を衰弱してしまった私達。どうしたら同化能力を復活させることができるのでしょうか?
・・・それは、「なんで思考」なのです
学校ってどうなってるの?69~「学力低下をどうする?!」
の中では、
失われた同化能力を再生するには、「なんで思考」 が有効。単なる知識の羅列では何の役にも立たない・・・「なんで?なんで?」とひたすら物事や事象の背後の構造を追求することではじめて、対象と同化する能力が身につくし、何より様々な問題に対する答えを出していけるようになる。
と展開しています。
詳しくは、ぽちっ と押して次へ・・・
その「なんで思考」が、なぜ思考力を復活させる鍵になるのでしょうか?るいネット投稿をいくつかご紹介します。
>”精霊を見た”という観念とは構造認識であり状況認識そのものだったのだと思う。(182066)
何故、”精霊を見る”ことが構造認識であり、観念機能の最初であるのか?その意味が今ひとつ分からずにいたが…。
今日露店で教わったことには、
【「なんで思考」⇒「構造認識」…「観念」の機能そのもの!】
過酷な自然圧力に対する畏れと物凄い不全を抱えていた原始人類は、自然を注視し続けるうちに、その奥に”精霊”という「自然が生まれ、育つ原因(自然を生み育てる存在)」を認識した。
(ex.木々が茂るのは、そこに宿る精霊の力による…。
雨が降り、雷が落ちるのはお天道様の力による…。)これって実は「なんで思考」そのものだ。自然が作られる原因構造、現象が起こる原因構造を把握しようとする、構造認識だろう。
だから、”精霊を見た”ことが観念機能の原点と言えるのだと理解した。
ポイントは「物事や事象の背後の構造を追及する」というところにありそうです。
つまり、「なんで思考」とは、同化能力を再生する起点となる思考方法なのです。そして、それは物事の背後にある原因構造を捉える構造認識⇒観念機能を再生させる思考方法といえるでしょう。ところが、貧困が消滅する以前の私権社会では「なんで」を考えることはありませんでした。
多くの方が指摘されているように、子供たちが年を経るごとにだんだん「なぜ?」と訊かなくなるのは、やはり、その問いに対する大人たちの答えがその場凌ぎのゴマカシだからであるのは、ひとりひとりの体験からも明らかなようです。また、仕事場面で指示内容の根拠を問う「なぜ?」という質問に、的確に答えてくれる上司が非常に少ないのも、多くの人が日常感じていることだと思います。
「なぜ?」という問いに対する答えが、その当人の考えであれ、人伝てに聞いたことであれ、いつも要領を得ないのは、彼が価値観念でしかモノを考えたことがない証拠だと思っていいでしょう。
もともと価値観念は、その根拠を問う「なぜ?」という問いを許しません。無条件に正しいものとして与えられます。ですから価値観念は、「なぜ?」という思考の対極に位置しています。したがって、根拠とは無縁の価値観念に染まれば染まるほど、「なぜ?」という問い自体を拒絶し忘れ去ってしまいます。
子供が大きくなるにつれて「なぜ?」と考えなくなるのも、価値観念の悪影響であるのは、最早疑いの余地はありません。もちろん、子供や部下の「なぜ?」という疑問をはぐらかすことができたのも、教師や部課長という‘身分’あってのことですが、そもそも私権時代とは、「なぜ?」という素朴な問いに答え得る構造観念など、まったくと言っていいほど存在しなかった時代でもあるのです。そして今、「なぜ?」という問いを封印してきた価値観念一色の世界に終止符を打ち、「何でだろう?」という言葉が蘇りつつあるとすれば、これは、価値観念と構造観念を「なぜ?」という言葉と思考によって、鮮明に峻別できる時代が到来したことを意味しています。この流れこそ、人々が価値観念に引導を渡し、構造観念(の持ち主やそれが語れる場)への期待が一気に高まる予兆だと言えると思います。
子供が何でも「なんで?なんで?」って興味を持って聞いてくる時期を、「なんで期」と言いますが、世間では、それはだいたい3歳頃から一年くらいで終了すると言われています。
ところが、大人がその「なんで?」に対してきちんと答えているor一緒に考えていると、それは小学生になっても続くのだそうです。
子供は、「なんで?」と聞かれたときの周りの大人の、「そういうもの」「当たり前」という思考停止の言葉、もしくは「めんどくさいなぁ」「(そんなこと言ったら見も蓋もないから)聞かないでほしいなぁ」という態度を感じ取るにつれ、「なんで?」と問いかけなくなっていくのだと思いました。
露店をやっていても、「なんでだろう?が思い浮かばない」という人はすごく多いのですが、結局、考えることを諦めてしまってる。考えても無駄だと不可能視してしまってる。
それが、露店に並んでいる「なんでだろう?」を目にすることで、考えることをまた始めたり、答えを聞いてもっともっと考えたく(知りたく)なったり。
「なんで?なんで?」と聞いてくる子供と同じようなキラキラした目になっていく人がどんどん増えていってます。
もともとは子供のころ、「なんで思考」はだれもが行っている思考方法なのです。ところが私権時代においては「私権」が絶対であり、その根拠を問うことは許されなかったのです。その結果、最初から答えありきの「価値観念」に染まるにつれて、「なんで?」という問いは封印されていました。
貧困の消滅→序列原理から共認原理への大転換を迎え、私権圧力は衰弱してくると、フタをしていた価値観念が揺らぎ、ふたたびもともとあった「なんで思考」が復活する基盤がそろいました。
これはとっても喜ばしいことですね
投稿者 bunchan : 2008年10月29日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2008/10/643.html/trackback