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2008年07月24日

女工の生活

明治時代の労働力の一つとして女工さんが挙げられます。

この当時、女工さんに対する労働条件はかなり厳しいものだったようです。

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今回は、女工の背景と働いていたときの状況を追求してみたいと思います。 :tikara:

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まず、明治以降の工業に注目してみたいと思います。

明治・大正期の傾向
工場という名称が冠せられる蒸気機関使用工場は1885年(明治18)段階では,綿糸紡績業・精米・鉱業の3種程度で製糸業のほとんどは蒸気機関を使用してもそれを煮マユ用に使っているものも多かった。1892年(明治25)になっても蒸気機関使用工場は18%程度であった。また,当時の工場工業は依然として製糸・紡績・織物の3業種でこの3種だけで(当時工業に計上されていた鉱業を除けば),払込資本は57.0%,労働者は88.4%であった。1902年(明治35)現在の工場工業における重要工業を今度は労働者数でみると,製糸業12万6,000人,紡績業7万9,000人,マッチ業5万4,000人,織物業5万3,000人,船舶車両業1万9,000人,タバコ業1万6,000人,窯業1万3,000人,印刷製本業1万人などで,そのほかは1万人以下であった。なお,1日平均労働者数5人以上雇用の工場をもつ工業部門別生産価額の変遷を1909年(明治42),1914年(大正3),1919年(大正8)と5年ごとについてみてみよう。明治40年代以降は飲食物工業,陶磁器を主体とする窯業,和紙を主体とする製紙業,製油製蝋業など伝統的工業が減少している。その反面,地位を著しく上昇させた工業は染織工業の24%→46%→49%への増加と,機械器具工業の3.8%→8%→16%への増加である。前者では輸出産業である生糸と綿糸の比率増加が著しく,後者では明治初年以来輸入に頼っていた機械製造と船舶製造が増加したためである。

なるほど、明治以降の工業は、右肩上がりで染織工業があがっているんですね。

ではその工業の中で実際作業をしている女工さんはいったいどのくらいを占めていたのでしょうか。

http://www.human.mie-u.ac.jp/~sakuradani/03roudou.pdf

なるほど、場所によっては、女工率が90%を超えるところもあったようで、おそらくほとんどの工場の女工率が、高かったように思われます。

女工さんたちがここまで多く雇われるのは、多産少死によって人口が増え、貧しい農家で生まれた子たちであったことと、男子よりもかなり低い賃金で雇うことができたことがつながったことが要因であると考えられます。

1913年の石原修『女工と結核』によると工場労働者80万人のうち女子は50万人,繊維工女の年齢は16-20歳が最も多く,12歳未満の工女も存在した.また病気のために解雇され帰郷後に死亡したものについて見ると,死亡者1,000人について703人と7割強が結核あるいはその疑いのあるものである 6) .
 中部・関西地方で繊維産業が盛んだった点,その繊維産業の労働者は圧倒的に女子であった点,女子労働者の年齢が15-20歳だった点および結核の初期感染学説 5) (戦前の日本で青年に結核が多いのは,青年期に結核の初感染を受け,引き続き発病するものが多いためであるという学説)などを考慮すると,これらの事実の反映として日本女子の結核の特徴が生じていたと考えることができよう.

女工さんは、明治に入ってからの市場拡大によって過酷な労働を強いられいたようで、その中で亡くなった方もかなりいたようです。 😡

そんな状況の中で、世帯を持つ人なんてそうはいなかったように思えます。 🙄

政府が家族制度を制定してはいますが、実態としては明治時代では、女工さんなど世帯をもてない人々も多く、家族という形態をしっかり築くには難しい時代のように思えます。

カネキチでした

投稿者 kaneking : 2008年07月24日 List   

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