女工の生活 |
メイン
2008年07月25日
「主婦」の登場…大正時代は女権の拡張期
写真はこちらからお借りしました。
明治時代は、西欧列強へのキャッチアップを目指して富国強兵、殖産興業という旗印を掲げ、国を挙げて大改革が進められた激動の時代でした。
毎日のように新しいものが登場し、家族のありかたも大きく変えられようとしていました。
一方、日露戦争で勝利したにも関わらず、日本は巨額の対外債務を抱えて危機的な状況でしたが、大正3年に第一次大戦が勃発したことにより経済が大きく好転し一気に債権国に仲間入りしました。
このような状況の下、大正時代から昭和にかけて女性たちの権利が拡大しはじめたようです。
続きはポチットしてから見てください。
・明治中頃より女性活動家の提唱によって、様々な婦人団体が結成されるようになりました。
・大正時代に入り普通選挙運動が活発化し、平塚雷鳥や市川房枝らの婦人参政権運動も活発になりました。
・大正12年関東大震災
・大正14年(1925年)普通選挙法が成立し、身分や財産によらず成人男子すべてに選挙権を与える普通選挙が実現することになりました。しかし、当時の普通選挙は婦人の参政権は認められず、生活貧困者の選挙権も認めないなどの制約がありました。
学校で習う歴史では以上のような記述になるわけですが、日常生活における実質的な女性の地位はけっこう高くなっていたようです。
「主婦」という言葉が登場したのも、そのような世相を反映しているようです。
●明治後期から女性向け雑誌が続々と発刊されました。
明治25年「家庭雑誌」
明治34年「女学世界」
明治38年「婦人画報」
明治39年「婦人世界」
明治41年「婦人之友」
明治43年「婦女会」
明治45年「婦女画報」
大正5年 「婦人公論」
大正6年 「主婦之友」
明治25年創刊の「家庭雑誌」から大正5年の「婦人公論」までの雑誌が対象としたのは女学校卒のインテリ女性たちでしたが、大正6年創刊の「主婦之友」が対象としたのは庶民層で、当時は「おかみさん」と呼ばれる存在でした。
※ちなみに、高等女学校の在学者数は明治30年代以降、大きく増加し始めますが、大正2年時点で全国で約8.3万人で小学校在学者数に対して1.2%程度、大正12年時点には在学者数約23.9万人まで増加しますが小学校在学者数に対して2.6%程度という状況で、女学校卒の女性たちは限られたエリート層でした。
●「主婦之友」の創始者は「主婦は一家を支える二つの柱、主人に対しての主婦」と宣言し、「主婦」は造語でした。
「婦人」の婦は女と帚(ほうき)の合字で、家の中に居て掃除する女、つまり嫁の意味でした。「婦人」という言葉には封建的な意味あいが含まれていましたが、「主婦」には大正デモクラシーの匂いが付着しています。つまり「婦人」から「主婦」に女性の地位を昇格させようとするものと言えます。
「主婦之友」は、『主婦』という言葉が定着していなかった時代に、「掃除から炊事、育児まで、何もかもこなさなければならない家庭の女性のため」ということを創刊の狙いとし、発行当時1万部だったものが3年目には十数万部の人気雑誌になりました。(なお、発行部数のピークは戦時中の1943年で164万部に達しました)
様々な実用情報を掲載し、雑誌から最も縁遠い存在と見られていた主婦をターゲットに、雑誌がリードして市場開拓し読者層を形づくっていきました。
●この「主婦」という造語を生み出した大正時代前後は、都市を背景にした大衆文化が生まれた時期でした。(リンク)
・東京では、関東大震災の影響が総じて少なかった丸の内、大手町地区にエレベーターの付いたビルの建設が相次ぎ、一大オフィス街が成立しました。
・一方、震災によって下町で焼け出された人々がそれまで農村地域であった世田谷、杉並などに移住して、新宿、渋谷を単なる盛り場から「副都心」へと成長させました。
・東京帝大の卒業生の半数が民間企業に就職するようになり、「サラリーマン」が大衆の主人公になりました。
・明治時代まで呉服屋であった老舗が次々に「百貨店」に変身を遂げ、銀座はデパート街へと変貌しました。
・「大阪朝日新聞」、「大阪毎日新聞」が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した読売新聞も成長を果たして、「三大紙」を中心とする新聞業界の基礎が築かれました。大正14年には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになりました。
・洋食が一般化して「カフェ」「レストラン」が成長し、外食業界に大変革をもたらしました。
・また、明治時代まで庶民に縁のなかった「欧米式美容室」、「ダンスホール」などが都市では珍しい存在ではなくなり、男性の洋装が当たり前になったのもこの時代でした。・女性も社会進出を果たしていて、派遣で働いていた女性も多かったようです。
「派出婦」と呼ばれた家政婦、裁縫婦、雑用婦、女店員、看護婦、当時の流行のひとつだった美顔術師もいました。女医、女薬剤師、女髪結、女給、タイピスト、モデルなどもありました。・昭和初期には、モガ(モダンガール)、モボ(モダンボーイ)が街を闊歩し、ダンスホールで踊り、流行歌のジャズを聴き、アメリカナイゼーションの波が押し寄せていたようです。
●このような都会においては、女性たちの性的な価値が高まり、流行の先端にいる男たちはインテリ女性たちの要求に耳を傾け、彼女らに喜ばれるような行動を自ら進んでとったものと思われます。
「主婦」という言葉を生み出したのもそのような流れの中のできごとだったとみなせます。
そして、都会の流行から外れていたとも見える庶民の「おかみさん」たちも、「主婦の友」という流行誌やラジオなどを通じて、西欧発の近代的な女性像に徐々に感化されていったものと思われます。
byわっと
投稿者 wyama : 2008年07月25日 TweetList
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://web.kansya.jp.net/blog/2008/07/591.html/trackback
コメント
投稿者 匿名
当時は、主婦という言葉を造り出すことによって女性の地位向上を図ったようですが、いまや女性の地位は男を凌駕するようになっていて、主婦という言葉は女性にとっては家庭に縛り付けられるようなイメージになっているのかもしれませんね。
投稿者 わっと
主婦って大正初めでは最先端の存在だったんですね★今ではすっかり家庭の中でまったりとした存在で憧れる人とか少ないように思いますがが。主婦が造語とはしりませんでした★