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2008年07月06日
明治期の米国婦人宣教師による家族思想の普及
かわいさんの記事(リンク)にあるように、明治時代に米国人の婦人宣教師たちによって、家族(ホーム)論や私権観念が日本に伝えられたようです。
激動の明治時代、法律や社会制度、家族形態などが大きく変化しはじめていたとはいえ、男中心の社会の中で西欧流の家族論や婦人の存在権のような観念をどのようにして広めていけたのか?興味を抱かせるところです。
そのあたりの事情を調べてみました。
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●当時、はるばる極東の島国まで来たのはこんな人たちでした。 ⇒引用元(リンク)
・アメリカ婦人一致外国伝道協会やアメリカ長老派婦人伝道局といった宗教組織に属した婦人宣教師。
・プロフェッショナルであることが求められ、海外に派遣される宣教師になるための要件は極めて厳格であったようです。まず独身であることが求められ、さらに、宗教活動の経験、教育に関する資格、外国語能力、健康、さらには手芸技術、音楽や絵などの趣味も要件とされたようです。
・活動の目的は、「異教の地において、現地女性の働き手を育てるために、(アメリカから)独身の聖書リーダーや教師を送ること」とされていました。
●彼らの主要な業績としては、大きく以下の2つがあげられるようです。
①保育所・幼稚園のさきがけとなるような活動を日本で初めて行った
・当時最下層の庶民たちは母親も賢明に働かなければならず、そのような母親たちの子どもを引き受けて保育をしました。
宣教師たちは「異教の地において、女性の働き手を育てる」ことを主要な目的としていましたが、上流階級の女性たちは働き手になるという観点からはかなり遠い存在であり、もっぱら最下層の女性たちの子どもを引き受けて保育活動をやり始めたようです。
保育という概念さえなかった日本で欧米流の考え方を具体的に実践する形で示しました。
②女子教育の学校を各地に設立した
・当時、女子に教育を施すことの必要性は認識されていませんでした。高等教育まで進むのはもっぱら男子で、ある程度の資産のある家の子女が高等女学校まで進むのが一般的な姿でした。
そのような状況の中で、もっぱら外国語教育を中心に西欧文化・キリスト教を女子に教える学校が婦人宣教師たちによって創られていきました。いわゆるミッションスクールと呼ばれる学校で、フェリス女学院や横浜共立学園など現代も存続している女子大などに繋がる女学校が各地に設立されました。
●さて、これらの活動を通じて、どのようなかたちで日本社会の中に、宣教師たちの教えが広がっていったのでしょうか。
・宣教師たちが伝えようとした母親像とは、家庭的技術を身につけ、子どもの保護・監督に熱心な姿であり、「家庭の母」というイメージを様々な階層に共通の理念として伝搬したと言われています。
・女子教育や育児・保育論を通して移入された家庭論は近代的国家を志向した知識層をとらえ、明治20年前後をピークに家族の団欒や家族の心的な交流に高い価値を認める新しい家族のあり方、「家庭(ホーム)」的な家族を理想とする記事が論壇に多く表れたようです。
・婦人宣教師たちの実践は、キリスト教という背景があったため、一般の人々に直接的に受け入れられたとは言えないようですが、ミッション系女学校で学んだ女性達は、女子教育やメディアのリーダーとして活躍しました。また保育・福祉事業を通じて、母親役割を主軸とする育児・保育論が展開されました。
キリスト教の布教は形骸化したものの、家庭理念・母親像は、都市中間層だけでなく、あらゆる階層に伝搬され、規範を形成したと言えるようです。
●当時、ミッション・スクールは2つのイメージが持たれていたようです。
1つは「あぶない」存在というイメージ。文明開化によって信教の自由が認められるようになったものの、帝国憲法下において天皇に対して不遜をはたらく事について不敬罪が導入され、キリスト教徒とミッション・スクールが関わる不敬罪に関する事件が各種新聞でスキャンダラスに取り上げられることで、キリスト教徒は非国民でありミッション・スクールは非国民のいる所というイメージが作られたという面があったようです。
一方、英語やドイツ語といった言語やテーブルマナーなどは近代化の象徴であり、これらを学べるミッション・スクールは、「ハイカラ」の象徴となったようです。
そして、「近代教育を身につけ、良妻賢母ではなく、近代文化を受容し、キリスト教を信じている」といったイメージのミッションガールたちは、近代化志向の男たちや文化人たちを惹きつけ、婦人雑誌などの論壇の中で女性の権利意識を広め、社会規範の縛りを解き放つ自由な性を媒介にして女性の権利拡大を主張していった、という面があったようです。
その後、昭和に入り戦時体制が敷かれる中で下火にはなるものの、戦後米国の占領政策の下で一気に花開くタネを蒔いていたとも言えそうです。
byわっと
投稿者 wyama : 2008年07月06日 TweetList
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コメント
投稿者 かわい
う~ん。
「ハイカラ」の基礎がこんな所にありましたか。
現代の無理矢理消費拡大の為に作り出される「流行」となんら変りは無いように思いますが、それとて心の隙間に漬け込んだ商売。
当時の町の情景は、賑やかさと寂しさが既に織り交ぜられていたのかもしれませんね。