明治期の米国婦人宣教師による家族思想の普及 |
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2008年07月07日
江戸~明治期における養育責任の移り変わり
(画像はコチラから引用しました)
かつて江戸時代においては、農村や町の長屋など、血縁以外の親分子分関係が豊かにあった共同体の中で子どもが養育されてきました。
女性教育のテキストとして用いられた「女大学」の内容も、子育ては掃除や洗濯といった家事の内の1つと位置付けられ、むしろ母親が子育てに熱心に取組むことはよくないこととされていたようです。つまり母親は子どもの養育役割として期待されていなかった。
ところが、明治に入って近代化が進んでいくと同時に、この共同体的な養育関係は徐々に解体されていきます。それは何故なのか?そして子どもの養育はどのように変わっていったのでしょうか?
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民法[第四篇・第五篇](明治31 年法律第9 号)(抄)(親族・相続)
第733 条 子ハ父ノ家ニ入ル
第877 条 子ハ其ノ家ニ在ル父ノ親権ニ服ス
第896 条 父又ハ母カ親権ヲ濫用シ又ハ著シク不行跡ナルトキハ…其親権ノ喪失ヲ
宣告スルコトヲ得
この民法の制定によって「家制度」及び「親権」が定められ、子どもと父母の関係が子どもと他人の大人との関係から明確に区分されていきます。
この「家制度」のポイントは、村や一族といった共同体内での様々な規制や規範からの自由が謳われたことであり、同時に子どもの養育責任を家の内部に閉じ込めたことです。まさに共同体の解体を意味するものとなりました。
一体何でこんな制度が出来上がってしまったのでしょうか?
それは、明治に入って以降近代国家を目指す国家が、欧米との接触を通じて生産技術や医療技術を取り入れたのと同時に、「個人」「自由」「平等」といった近代思想が移入されたことが大きく影響していたと考えられます。
市場拡大を目的とした国家は、大衆を統制するために徴税と徴兵制度を制定しましたが、国民に対して国家への帰属意識をより強固に持たせるためには、村や一族といった共同体の結束は邪魔であった。
まずはこの共同体を解体することが目的であったといえそうです。共同体規範からの自由や財産権の獲得とは、大衆に私権獲得の可能性が開かれたことを意味し、まさに近代家族のはじまりとなりました。
次に、子どもの養育が共同体から切り離されて「家」の中に集約されます。しかし、実態として子どもの養育責任は「家」に任されたわけではなく、国家に対する責任でした。つまり、生産力として、兵力としてよい国民を「家」において養育することが国家に対する責任だったのです。
人々から共認充足の場である共同体を奪い、代わりに私権という幻想を与えて人々をバラバラにし、特権階級が共認を支配するという構造を作り上げるのに、近代思想という欺瞞観念は非常に都合がよかったということだと思います。
参考にさせていただいた論文:
厚生労働科学研究成果データーベース
「明治近代以来の法制度・社会制度にみる 児童の養育責任論とその具体化に関する分析」 主任研究者 田澤薫(国際医療福祉大学講師)著
投稿者 hiroaki : 2008年07月07日 TweetList
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