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2008年05月15日
子どもの疲労感は、課題の「多さ」よりも、多くの課題の「統合不全」により生まれる。
1970年頃に貧困が消滅して以降、子どもの習い事や通塾は、一般的になりました。かつては、貧困の圧力⇒いい生活をするために、いい学校に行く(いい学歴を得る)ことが第一であり、勉強が第一という価値観でした。しかし、貧困の圧力が衰弱し、その価値観が無効化すると、勉強だけができても…という価値観が生まれ、スポーツでも音楽でも好きなことが見つかればいいという価値観が広がり、子どもたちの可能性を伸ばすもの(実態は、子どもがやりたいこと・親がやらせたいこと)を何でもとりあえずやらせるようになっています。
つまり、今の子どもらは課題がいっぱい。
しかし、その一方で、やらせずぎだから疲労感が増しているのでは?という状況にもなっているようです。それに対し、もっと遊ばせた方が(つまり課題を減らした方が)いいという考えがでてきますが、単に減らせばいいという単純な問題ではありません。
どういうことかといいますと・・・
● 課題圧力 ⇒ 共認充足
(外圧) (内圧)
子どもの活力源は、本源的な「周りからの期待⇒課題」であり、期待に応えたときに得られる笑顔や賞賛の言葉による「共認充足」です。
本来は、期待圧力⇒課題圧力が高くなるほど、得られる充足や活力の度合いも高くなります。ゆえに、期待⇒課題の多さは、活力衰弱の原因にはなりません。
※大人も同じ構造ですが、観念(構造認識)の発達度が低い子どもほど、対面的な「身近な期待」に強く依存します。また、旧観念に頭を染められていない子どもほど、本源の構造に近くなります。
● 大人の期待の統合不全 → 子どもの意識(活力)の収束不全
では、本来の構造とは逆に、疲ればかりが蓄積し、活力が生起してこないのはなぜか?それは、「期待⇒課題が多いから」ではなく、『多くの期待⇒課題が統合されていないから(その背後の外圧を掴めていないから)』です。
すでに、生存圧力(私権圧力を含む)は衰弱し、同類圧力へと場(圧力)は転換しています。(リンク)
しかし、序列観念や私権観念など旧観念から脱却できていないために、新たな圧力に基づく期待⇒課題を統合することができていません。
つまり、観念パラダイムの転換⇒新観念の習得が不十分であるため、新旧雑多の期待⇒課題の整序や整除ができず、やる意味が希薄な課題が増えていきます。その結果、達成感が貧弱になり、逆に疲労感だけが蓄積されていくのです。(充足可能性を見出せなければ、活力は生起しません。)
● 課題の統合 ⇒ 闘争圧力の把握
子どもは、「それらの課題を担うことで、どのような期待に応えることができるようになるのか?(充足可能性・課題の意味)」を具体的に提示してくれることを期待しています。(言葉だけでなく、大人自らの実現によって!)
そのためにも、大人たちは、旧い観念(⇒私権獲得のため、自分のための実現)を捨て、新しい観念(⇒仲間のため、みんなのための実現)を構築していく必要があるのです。新たな判断軸が共認されていくほど、不要な課題は淘汰されていき、必要性の高い課題へ収束できるようになります。そうなれば、活力は上昇していくはずです。
闘争圧力 ⇒ 課題圧力 ⇒ 共認充足
↓ ↓
場の転換 → 統合不全 → 収束不全
∥ ∥ ∥
V V V
置かれた環境を貫く闘争圧力を把握せよ(リンク)
∥
V
新たな観念(構造認識)の習得
※(引用元)小学生の活力低下は「期待⇒課題が多いから」ではなく、『多くの期待⇒課題が統合されていないから』⇒置かれた環境を貫く闘争圧力を把握せよ
なるほどーと思った方は、
投稿者 toya : 2008年05月15日 TweetList
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コメント
投稿者 shijimi
toyaさんこんにちは☆
>大人たちは、旧い観念(⇒私権獲得のため、自分のための実現)を捨て、新しい観念(⇒仲間のため、みんなのための実現)を構築していく必要があるのです。
確かにそうですね☆
課題が自分だけの課題であれば、身近な期待応望に反応する子供には、活力の出る課題とならないかも・・・。
みんなの課題って思えるから活力も出るんだと思いました。
話しがずれるかも知れませんが、親が「疲れているから」て期待に応えられないor応えなくていい、としていると、子供も、よく「疲れた」というようになると聞いた事があります。
大人が自分課題以外を、課題捨象する理由として、疲れたと言っている。ともいえるし、
逆に言えば分課題だから疲れるんじゃないかな!とも、思いました。