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2008年03月25日

学校ってどうなってるの?55~四書五経ってなに?~

四書五経とはなにだろうか?今も帝王学として一部が学ばれているようだが、かつて、江戸時代の藩校、古くは、昌平校で素読されていたようです。中国では598年~1905年、隋から清の時代まで「科挙」という官僚登用試験に採用されており、官僚になるには必須の条件だったようです。現代の国語の教科書と国語力の低下の背後には、対象への同化機能の劣化が考えられ、歴史の塗り重ねを読み取るということを捨象しているように思われます。現代の教科書を考える上で、四書五経ってなに?の概要を記載します。

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概要は、『山東省と青島』に記載されてるものが分かりやすいので転載します。(文中のリンクはウィキペディアに飛ぶようになっています)

●『山東省と青島』~四書五経~より

四書五経とは儒教の経書で重要な9種の書物のことで、四書は、「大学」「中庸」「論語」「孟子」五経は、「詩経」「書経」「礼記」「易経」「春秋」です。「楽経」を入れて「六経」と呼ばれることもあるようです。
もともと孔子の時代には、詩経、書経、易経が明確に整理されていただけでしたが、そのご漢代までの間に礼に関する『小戴礼』を、楽に『詩経』をあてて、儒家の基礎経典としての五経が尊重されるようになりました。また、宋代に朱子学が興って、儒教を体系的に学ぶために儒家の経典をまとめ、論語を中心として礼記から大学と中庸を独立させ、儒家思想について多く書かれた孟子を加えて四書としました。

◆◆四書
1】「大学」
・前430頃書かれたもので、もともと『礼記』のうちの一篇。漢の武帝が儒教を国教と定めて大学を設置した際、その教育理念を示したものとされ、要するに君子の学習方法を論じたものです。

2】「中庸」
・前430頃書かれたもので、『大学』と同じくもともと『礼記』のうちの一篇。中庸とは偏りが無く永久不変という意味で、道徳の原理、不変の道理を論じたものです。

3】「論語」
・上下20篇からなり、孔子の談話、弟子の質問に対する答、弟子同士の討論などが書かれています。
漢代には、魯国に伝わった『魯論』20篇と、斉国に伝わった『斉論』22篇、古文で書かれた論語『古論』21篇の三種類がありました。その後漢代末に鄭玄が『魯論』を基礎として現在の20篇に集約したものが現在伝わっているものです。

4】「孟子」
・孔子の弟子・孟子による、『論語』を真似た言行録。当時の儒家の標準的理解が記述されていて、孟子の仁義を中心とした思想によって解釈されています。

五経
1】「詩経」
・前470頃書かれた中国最古の詩歌全集です。西周初期から春秋中期(前11世紀~前6世紀頃)の多くの詩の中から孔子が雅楽に合う305編を選んで編集したもので、地方民謡の『国風』、諸侯歌謡の『小雅』、天子歌謡の『大雅』、霊廟歌謡の『頌』の4章で構成されています。

2】「書経」
・前600頃書かれた政令集です。古代からの君臣の言行録を整理したもので、聖王の『虞書』、夏朝の『夏書』、殷朝の『商書』、周朝の『周書』の4章あり、尭・舜から秦の穆公に至るまで全58篇で構成さています。もともとは『書』あるいは『尚書』と呼ばれいました。

3】「礼記」
・前漢末期頃書かれた【礼】(戦国以前の制度・習慣)が説明された書物です。日常の礼儀作法や冠婚葬祭の儀礼、官爵・身分制度、学問・修養などについて説明されていて全49篇あります。また、周代の官制が書かれた『周礼』や、周代の官吏の冠婚葬祭について書かれた『儀礼』と共に『三礼』と呼ばれています。

4】「易経」
・前700頃書かれた古代の占術理論書です。64卦を説明する『経』とその解説の『十翼』で構成されていて、十翼は、卦に関する『彖伝』上下、爻に関する『象伝』上下、用語を説明する『繋辞伝』上下、乾坤二卦に関する『文言伝』、配列を説明する『序卦伝』、八卦を説明する『説卦伝』、対比を説明する『雑卦伝』からなっています。自然現象を万物の事象の象徴としてとらえ、生成変化を予測するという内容から儒家だけではなく、道家にも尊重されました。もともとは『周易』と呼ばれており、『易経』と呼ばれるようになったのは宋代以降のことです。

5】「春秋」
前5世紀頃書かれた魯国の歴史書です。もともと編年体の年代記を孔子が整理したとされています。『春秋』の本文自体は各年が数行単位の簡潔なもののため、解説書として、前漢初期には『公羊伝』『左氏伝』『穀梁伝』などが伝わり、前漢末期に左丘明が編纂した『春秋左氏伝』が主流となりました。

との概要です。

現在、伝わっているのは、宋時代以降のもので、編纂を繰り返したいわゆる【経典】であり、塗り重ねられた歴史の積み重ねであると考えられます。本来であれば、日本における儒学の歴史を紐解かなければなりませんが、それは、後日としましょう。
 まず、四書五経は、江戸時代、幕府経営の幕府に仕える人々の啓蒙・教育機関としての昌平校で学ばれていたこと。私塾でも、藩校でも、学ばれていたこと。寺子屋は、後期になってからこれを学ぼうとするところもあったとかなかったとか・・・
江戸時代は、漢学主流、明治に入っての教育の欧米化が進められる中で、天皇制と相まって、儒学教育は一旦排除されるが、自由民権運動による人心収攬の手段に利用され、儒教が天皇制国家の権力を背景にして巨大化、天皇制と相まって君主の道徳として国家主義、軍国主義のイデオロギーを先導していった。明治政府の大久保利通、木戸孝允、伊藤博文らの「西洋化」推進組は、昌平校を母体にして儒学と国学の教育を展開していた大学を閉鎖して文部省を設立しました。
 新政府を支配したのは、下級武士で、旧体制を支配していた武士の倫理=封建教学の儒教は排除され、かわって、新しい権威である天皇と西洋学に変えられて行った。王政復古、廃藩置県、殖産興業と富国強兵の基礎として西洋学が積極的に導入され、1872年(明治五)年の「学制」で敷延され実利主義へと突き進んでいったようです。

よって、この四書五経は、明治時代の儒教教育のイデオロギー化や排除、教育の西洋化により、一旦、排除されることで、学力の低下を招いているともいえるだろう。

四書五経の内容は、また、調査して、記事にしますが、儒教の歴史的分析と中国分析が必要なことがわかりました。また、現在の教科書とは密度、内容の濃さ、塗り重ねの歴史度合い、故人の思い入れなどレベルははるかに異なり、私たち自身も読めないこの四書五経を次回は、中身を分析していきたいと思います。

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投稿者 2310 : 2008年03月25日 List   

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コメント

wikipediaでも「経書の丸暗記などといった「試験に合格するためだけの方法」によって合格した官僚は実務という点ではまるで使い物にならず、これによる問題も深刻となった。」とかかれているように、暗記しようと思うかそうでないかで、どう認識されるかが変わってくるでしょう。で、当時の日本の官僚候補たちは、これを扱うことで何を得ようとしたのでしょうかね?どうも今一良く分かりません・・・。

投稿者 さいゆー : 2008年3月26日 09:59

湯川秀樹は幼い頃四書五経に親しんで暗唱するほどだったと言われています。中国ではこれが科挙の試験問題となっていたそうです。
官僚機構がダメなものであるとは福沢諭吉も言ってます。でもその時代には有効なものだったのではないでしょうか。それが謎ですね。

投稿者 seiginome : 2008年4月3日 11:02

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