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2008年03月16日

要注意!親の期待はズレている。

😀 こんにちは。

今日は、子育てに対し、ついつい「 :blush: 過保護・過干渉 👿 」になってしまう家庭の原因構造を追求してみました。

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喪失の弊害に至るまで【過干渉・過保護】

過保護の親に子育ての資格はあるか?

おいお前ら、絶対過保護過干渉で子育てするなよ

など、いくつかのサイトでも、「過保護・過干渉」は子どもの心を破壊する行為だ、と指摘されています。

しかし一方で、これらの状況は一般的な家庭に良く見られる風景でもあり、まさしく現代家庭の構造的問題であると捉える事ができます。

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まず、現代社会は、
・1970年:貧困の消滅→私権の衰弱
・1990~2000年:バブル崩壊・金融破綻→私権の終焉 ⇒ 収束不全

という形で、社会を取り巻く圧力構造が大きく変わり、社会全般が目標を見失った時代であるとも言えます。

そのような社会状況において、親が子どもに期待する事ってなんでしょう?

・立派な大人に育って欲しい
・自分の好きな事をやりなさい
・自分の子だけには苦労させたくない

などなど、言葉としてはそれなりに色々出てくるのでしょうが、どれも漠然 🙄 として掴みどころのない方針しか、大人達は提示できていない。はっきり言ってしまえば、「導く事が出来ない」状態になっています。まず、この状況を受けて一番最初に不安になるのは、母親でしょう。子育て不安の中心軸は、密室空間での共認不全と、見通しの立たない漠然とした不安、というダブルパンチを浴びている状態です。

そのような不安心理の中、せめて「勉強だけは」とか「うちの子だけは」といった一点集中かつ一方的な過剰期待が我が子に向けられた状態、という事になります。しかし、実際には不安な訳ですから、結局は「良い学校」「良い塾」へ入れる事で、少しでもその不安を和らげようとする。

子育てのアウトソーシングです。方針を組み立てられない限り、最早家庭では真っ当な教育などできるはずもなく、公共、あるいは企業のサービスを存分に受けさせる、という方向へとシフトして行きます。

次に、このような過剰期待を受け続けている子供はどうか?というと、

『黙っていても全てを与えられる状況』

になっていきます。親からすれば、必死になってわが子を庇っているつもりかもしれませんが、子供は何も考えることなく、物や課題を与えられる毎日。全く、圧力の働かない状態であれば、育つ必要性すらも失われ、消費者体質だけが染み付いていきます。

さらに分が悪いのが、親のにわかな期待の中身は、時代錯誤の「私権期待」が殆ど。具体的な方向性も無い中で、唯一自分の経験や出来合いの制度に乗っかっているに過ぎない為に、相変わらず子供に対して「私権獲得」の為に勉強する事、を期待し続けてしまいます。

しかし、残念ながらそれでは子ども達の社会に対する答えにはなりません。勉強の意味が、全く持って感知できないのです。

何故ならば、子ども達が主体的に感じ取る圧力とは、仲間空間や課題を共認する事で生まれる圧力であり、それが唯一の圧力源でもあるからです。なので、「自分の為に勉強する」事は、全く持って意味を持たない。

社会を取り巻く圧力状況の変化は、まだ固定観念の薄い子ども達に対してこそ、最も敏感に働きかけます。

逆に、自分の経験だけを頼りに物事を判断しようとする大人の固定観念は、現実を捻じ曲げ、ずれた期待で子ども達の可能性さえも封じ込めようとしてしまいます。

さて、このようなズレが既に生じている現在、このズレた状態でもなんとか上手く行っている『場』も、いくつかあるようです。

例えば、塾や部活動といった、子ども達が主体的に圧力を形成できる場が、それに当ります。

塾といえば、親のお受験期待と、それを受けて成果圧力の働く先生、という大人達の共認域が成立する。
親も先生も、共に成果を上げる事を期待しあいます。

では、そこでやる気になっている子ども達はどうかというと、これまた全く別の次元で、活力を見出しています。
子ども達は、受験に受かる事ももちろん大きな目標ですが、それ以上に「同じ目標」に向かう仲間達との評価圧力こそが、彼らにとって最大の活力源となっているようです。

なので、実際に塾に通う子ども達の意見と聞くと、
「あいつすげぇ!この前90点も取ったよ!」
「今回のテストは、俺が勝ったかも!」
などなど、お互いに切磋琢磨する事を楽しんでいるのです。

どうやら、親の期待以上に、子ども達同士の評価形成が中心軸となっている様子。

また、部活に夢中になる子ども達も、同じく「共通の目標」に向かう仲間達との間で、様々な役割が共認され、日々その中で磨きあい、期待の掛け合いが行われているようです。

簡単に整理をすると、

大人の期待=私権獲得:子ども達には通じない期待→圧力が働かない

子供の期待=共認充足:仲間達が身近な同化対象となり、お互いに期待し、評価し合える関係

というズレがありつつも、それがたまたま上手く合致した空間が、活力ある場を生み出している。

しかし、ここでの最大のポイントは、
子ども達が『圧力の主体』となれる場を用意する、という事に尽きると想われます。

ズレた期待で子供を潰すのではなく、場を用意しさえすれば、子供なりに工夫し、探索し、活力の源泉を作り出していく事ができる。

人間は共認動物である。

この認識ひとつあれば、可能な事ですね。ひとつ、大人達も固い頭を捨て去って、場や周りに委ねてみることから始めた方が良いのかもしれません。

投稿者 kawait : 2008年03月16日 List   

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コメント

>ズレた期待で子供を潰すのではなく、場を用意しさえすれば、子供なりに工夫し、探索し、活力の源泉を作り出していく事ができる。

なるほど!

場を用意して見守る、というのが、親の役割かもしれませんね。

投稿者 Y : 2008年3月17日 21:57

Yさん、コメントありがとうございます。

「親」という漢字は、
木の上に立って、見守る、と書きます。

村落共同体では、子どもも半人前ながらに農業の一翼を担っていたようですし、役割を与えながら見守る、というのはごく当り前の習慣であったのかもしれませんね。

現代の様に、不安ばかりが先行してしまうと、見守る余裕すらなくなってしまうという実態は、おおいに反省すべき点であると考えています。

投稿者 かわい : 2008年3月21日 23:21

失敗経験が子どもを成長させる。親はその機会を奪ってはいけない。少しぐらい痛い目を見ないと打たれ弱い子どもに育つ。あまりにも親の干渉が強い環境で育つ子どもは自分で判断できなくなる。依存の強い子どもに育ち、社会にうちとけられなくなってしまう。過保護、過干渉における線引きは非常に難しいが、生活の中で子どもに接する時は、少し意識しておく方がよい。

投稿者 いけがみ : 2008年11月5日 13:17

親の期待とは何か?考えてみると、
自分ができなかった事をやらせたいという事かな?と思います。期待するのは一概に悪いことではないと思いますが、過剰に期待すると余計な力を加えてしまうと言うことなのかと……….

親類で私大医学部生がいます。その方の母親は才媛ですが若くして出産し、同級生の医師を大変羨ましいと思っていたそうです。自分の果たせなかった夢を果たした娘を溺愛しているそうです。私はこの話を聞いて恐ろし話だと思いました。

私の母は、この母親を大変羨ましく思っているそうです。私はこの二人を内心軽蔑して人生を歩んでいます。

投稿者 アウトロー : 2011年8月5日 15:23

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