学校ってどうなってるの22 ~中間まとめメモ2 |
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2007年09月07日
私塾の源流 > 前提は、身分よりも能力を重視した国家試験制度。
はい、今日は、「私学の源流」について。
「私塾の源流 – るいネット」より
>江戸時代は国際的にもまれにみるほど教育機関が発達していたようです。
>これは武力支配の士農工商という身分制度は厳然として存在しながらも、実は商人が経済力を背景に実質的な力を持っていた。
>その中で現状に飽き足らない人たちは市場社会における新しい序列の可能性をみていたのだと思います。
なるほど。
しかし、なんで江戸時代に?
「私塾」設立の前提をもう少し追ってみました。
単純な結論ですが、「私塾」の前提は「国家試験制度(リンク)」であり、その起源は中国の「科挙(リンク)」に行き着きました。
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江戸時代は、“有能な”国家官僚を育成するために、朝鮮の科挙の制度に学んだ「学問吟味(リンク)」という国家試験が実施されていたために、それに応じて、私塾が発達しました。
「科挙」制度の特質は、「優秀な人材を採用するために、基本的に身分その他がどのような者でも、受験を通じて学識が認められれば官僚として採用する」という点です。
確かに、経済的時間的に余裕のある(私塾に通える)商人であるほど、新しい序列の可能性が開かれたわけですね。
参考
>天下を平定した徳川家康は、武力に代わる政治理念、朱子学を導入し、政権を半永久的に維持しようとした。
>家康は、羅山に儒教の私塾建設のために広大な土地と200両を下賜する。
>1790年、朱子学を正学とする法律を出し、他の学派を禁止する「實政異学の禁」の発表。
>有能な国家官僚を育成するために、朝鮮の科挙の制度に学んだ「学問吟味」(国家試験制度)の実施。
参考
>学問吟味
>江戸幕府が旗本・御家人層を対象に実施した漢学の筆答試験。実施場所は聖堂学問所(昌平坂学問所)で、寛政4年(1792)から慶応4年(1868)までの間に19回実施された。試験の目的は、優秀者に褒美を与えて幕臣の間に学問奨励の気風を行き渡らせることであったが、慣行として惣領や非職の者に対する役職登用が行われたことから、立身の糸口として勉強の動機付けの役割も果たした。類似の制度として、年少者を対象にした素読吟味(寛政5年創始)、武芸を励ますための上覧などが行われた。
参考
>科挙(かきょ)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで行われた官僚登用試験である。
>「(試験)科目による選挙」を表す(現在の選挙とやや意味は異なり「選抜」に相当するが、優秀な人材を選ぶ手段という点では同じ)。基本的に身分その他がどのような者でも、受験を通じて学識が認められれば官僚として採用した。
>日本でも、平安時代に科挙が導入されたが、受験者の大半は下級貴族で、合格者は中級貴族に進める程度であった。このため、大貴族と呼ばれる上級貴族層には浸透せず、当時の貴族政治を突き崩すまでには至らなかった。その後は、武士階級の抬頭とともに廃れ、江戸時代までは、官僚は世襲制が主となり、科挙が日本の歴史に影響を与えることは無かった。
>しかし、明治維新で、日本にも科挙形式の官僚選抜制度が導入された。高等文官試験(現在の国家公務員試験の原型)は科挙をヒントとして作られた制度であり、試験科目は儒教ではなく、西洋の近代学問となった。
さて、今では当たり前のことのようですが、「身分」(世襲制)から「能力」(能力制)に転換したのは何で?というところが、気になりました。さて、何ででしょう?→分かった方はコメントください
本来、能力制は、新たな身分制ではないということです。確かに、能力が求められて、生まれてきた経緯があるのです。
単に、身分獲得のための能力開発(塾通い)では意味がありません。能力が必要とされる意味(外圧)を理解しなければ、受験をして受かったところで、役立たずで、役割(≒身分)は剥奪されて、受験の努力は無駄になってしまいます!
投稿者 toya : 2007年09月07日 TweetList
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