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2007年03月20日

マスコミ報道で遮断される事実追求(奈良県母子放火殺人事件)

 皆さん、昨年6月に奈良県で起こった医師宅放火殺人事件覚えてあります? 🙁
当時はマスコミも大きく取り上げており、覚えてある方も多いのでは? 8)

 この事件に対し、新井省吾氏が雑誌(SAPIO 2007/3/14号)に、”奈良県母子放火殺人事件「精神鑑定書」でわかった少年と父親の「戻らぬ絆」”という記事を書いています。興味がある内容なのでここで抜粋します。

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[以下は概要です。]
 医師の息子だった少年(16)が父親のスパルタ教育から逃れるため自宅に放火し、継母と弟、妹の3名が死亡し、家族の中で少年と父親だけが生き残った事件。
 その後、父親の少年に対する謝罪と、2人の和解の様子が書かれた手記が発表されると、マスコミは「父子の絆」の再生劇とこぞって報道した。

 しかし、その手記発表後、和解への道は非常に厳しいものになることを示唆した少年の精神鑑定書が家庭裁判所に提出されていた。
 勤務医であった父親(48)は、少年を医者にすべく、幼い頃から手厳しく異常なまでに教育してきた。父親は、ほぼ毎日勉強部屋で少年を監視し、少年が問題を解けない場合、容赦なく鉄拳を振るった(少年が前歯を折ったり、頭から血を流すこともあった)。こんな暴力指導が10年以上続いた。初めは、医師としての父親に憧憬の思いもあったようだが、やがてそれは畏怖へと変わる。そして、父親に2度目の成績の改ざんを見破られるのを恐れて父親を殺そうと決意する。
 
 父親はなぜ息子を医者にしようとしたのか?「開業医の娘である先妻と、その両親に対する意地から、どうしても息子を医者にしたかった。」と事件後に供述している。

 事件から1ヶ月後、父親は手記を公開し、その中には、子供に対し謝罪し、原因を作った自分も罪を償うとの内容が書かれていた。これを以って、「涙の和解」とマスコミは報道したが、実は父親の言葉は少年の胸には響かなかった。その後、鑑定医に「お父さん、変わってないですからね」と言っている。また、鑑定医が父親の衝動性や攻撃性は病的である。少年の社会復帰に際しては、少年のみならず親子関係にも注意して見守る必要があると考えられると鑑定書に記載している。
(抜粋終わり)

上記記事を読むと、いかに大手マスコミの報道が偏っているかがわかります。みんなが知りたいのは、事件の原因追究とどうしたら良いかということですが、マスコミ報道は事実を伝えないどころか、そのための実現への流れを遮断しています。マスコミ報道の怖さ(観念操作)を感じる例だと思います。

投稿者 hoop200 : 2007年03月20日 List   

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コメント

この事件は鮮明に覚えています。事件後の分析として、るいネットへも投稿がありました。

奈良の高1放火殺人事件 原因は「父への恨み」って本当?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=125268

マスコミ報道は偏っている事も問題ですが、本質的な答えが出せない、という事の方が大きな問題のように思います。

そのマスコミ発の情報を安易に鵜呑みにしてしまう傍観者も然り、ですが。

投稿者 かわい : 2007年3月21日 17:44

この事件から教訓を導き出していきましょう。

  小学校・中学校で優秀な成績を収めながら、何のために学力を上げなければならないのかという問題を、父からのお仕着せとしてだけでなく、自分の生き甲斐として考えていない。
  
  人間は道具を発明し、改良し、発展させて、歴史の進歩と共に生活を向上させてきた。その原動力は人間が創造的に行ってきた人の幸せを考えて・作る労働である。社会の進歩と共に社会は複雑化し更に進歩を追及するにはより高度な理性と知性を必要としている。それゆえ、本当に社会に貢献したいとなると更に高度な知性を必要とする分野が増える。医学はまさにそういう分野のひとつである。だから真剣に勉強しなければならないし、する価値があるのだ。

  またその学力を何のために使うのかと言う点になるとまるっきり悩んでいない。医者になるという立派な目標を掲げながら、今自分が全く逆の局面に立たされていることに悩んでいない。

  父は人の命を救う医者であるはずが自分を殺し屋に追いこもうとしている。万が一父の殺人を実行したら、「崇高な職業の息子が殺人者」。その当のお医者さんが殺人の犠牲者。母は殺人者の親であると共に夫が殺人の犠牲者。妹と弟は兄が殺人者で父がその犠牲者。一生この2重の重荷を負ってみんな生きていかなければならない。妹、弟は僕が受けている暴力よりはるかにひどい重荷を負って生きることになる。おじいちゃん、おばあちゃん。親戚の人。学校の友人、先生。みんなが重荷を負うことになる。

  ここまで、考えたら絶対に父を殺してはいけない。ましてや母や妹・弟はもってのほかだ。妹・弟だって、生きて努力すれば、第2のアインシュタイン、野口英世、キューリー夫人になれるかもしれない大切な人。1人1人の命は63億分の1だが、その1が63億全体を救う可能性を持ったすばらしい可能性を秘めているのである。絶対に殺してはいけない。

  元々の出発は父の暴力だ。父に暴力をやめてもらえればすべては解決する。
  父が暴力をやめてくれれば、僕はやっぱり医学を目指してがんばる。

  がんばってもし医学の道が切り開かれなかったら別の道を考えてまじめに生きよう。

  この日本には医者になりたくてもなれなかった人、弁護士になりたくてなれなかった人はたくさんいる。大切なことはそれぞれの職業で命を大切にして生きることではないだろうか。

  父が暴力廃止を飲んでくれなかったらどうするか。

  やっぱり生きることから始めよう。

  父も生き、自分も生きる。勿論母も妹・弟も生きることを大前提にして考えるとさまざまな方法が考えられるはずである。
  父の不当な暴力を前の母に訴えて母の元に走る。
  現在の母に訴えて妹・弟と4人で逃げることを提案する。そして実行する。不当な暴力主義者から母と妹・弟も救う1番賢明な策であると、私は思う。
  父を暴力主義者として裁判に訴えて、養育費を獲得して1人で生きていく道を考える。そのために父とは一緒に住めない実態を詳細に書いたノートを発表し日本一の弁護士の応援を頼む。
  考えれば、まだまださまざまな方法はあるものである。

投稿者 藤井靖志 : 2008年3月28日 16:01

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